第2章
電話の向こうで、秋乃はまだ私の代わりに憤ってくれていた。
「どうしてちゃんと説明しなかったの?」
会はお開きになり、東都の深夜は骨まで凍てつくような寒さだ。私は受話器に向かって白い息を吐き出し、乾いた声で告げる。
「もういいの。彼、隣に人がいたから」
秋乃が言葉を詰まらせる。
「……彼女がいたの?」
「ええ」
煌びやかなエリートの同級生たちはとっくに散り、残ったのは「西港」から来たこの負け犬一匹だけ。
「じゃあ、あんたの長年の苦労は水の泡じゃない。せっかく勇気を出して——」
「秋乃。誰も、同じ場所で誰かを待ち続ける義務なんてないの」
私は彼女の言葉を遮った。タイミングを逃した言葉など、今さら口にしたところで、腐った食べ物のように反吐が出るだけだ。
冷たい風が目に痛い。私は強く瞬きをして、込み上げる涙を押し戻した。
「もう諦めたわ。本当に」
何年も必死に足掻いて、泥沼から這い上がり、ようやく胸を張れる姿で彼と再会しようとしたのに。もう、遅すぎたのだ。
電話を切る。配車アプリの画面では、ローディングの円がまだくるくると回っていた。
背後からヒールがアスファルトを叩く音が近づき、続いて女性のたおやかな声が響く。
「礼、今夜の雪は本当に綺麗ね」
「外は冷える。車の中で待っていろ」
藤崎礼の声は低く冷淡だが、聞き間違えようもない特徴的な響きがあった。
「じゃあ、早くしてね」
その女性は私の横を通り過ぎる際、意味ありげにこちらを一瞥した。
彼女が車のドアを開けた瞬間、コートの袖口から翡翠のバングルがきらりと覗く。
あれは、藤崎家に代々伝わる家宝だ。
かつては私の腕にあったもの。別れ際、私がゴミでも捨てるかのように突き返したものだ。
どうやらただの恋人ではなく、婚約者らしい。
周囲からひと気が消え、私と彼だけが残された。
予約したタクシーまで、あと二キロ。
藤崎礼は私の数歩後ろに立ち尽くし、一言も発さない。
沈黙の中、思考は別れを告げたあの雨の夜へと引きずり戻される。私に会おうとして彼が事故に遭った夜だ。友人が電話越しに怒鳴り散らしていた声が蘇る。
『藤崎はまだ処置中なんだぞ! お前、来る気があるのか!?』
『死にはしないでしょ?』
あの時の私は、冷淡にそう言い放った。
『死んでないなら、行かないわ』
『小坂遥、あれは全額給付の奨学金だぞ。あいつが這い上がるためのチャンスだったんだ! そんなに金がないと困るのか? 金のためにあいつを潰す気かよ!』
私はそこで電話を切った。
彼の目に映る私は、金のために貧しい恋人を切り捨てた裏切り者。彼が私を恨むのも、無理はない。
「いくらだ?」
藤崎礼の氷のような声が、回想を断ち切る。
「藤崎社長には、関係ございません」
冷たい空気を吸い込んだせいで、胃の中のアルコールが逆流しそうになる。私は思わず腰を折り、激しく咳き込んだ。苦しさで涙まで滲んでくる。
藤崎礼はそれを傍らで冷ややかに見下ろしていた。まるで、無様な道化でも見るような目で。
やっとタクシーが止まり、運転手が窓から顔を覗かせた。
「『桜ヶ丘マンション』へのお客様ですか?」
「はい」
そこは東都でも屈指の高級住宅街であり、今の私の身分では到底住むことなど叶わない場所だ。
ドアに手をかけた瞬間、手首を灼けるように熱い大きな手に死に物狂いで掴まれ、猛然と後ろへ引き戻された。
勢いで藤崎礼の胸板にぶつかる。よろめく足を踏ん張る間もなく、頭上から冷え切った声が降ってきた。
「桜ヶ丘へ、何をしに行く気だ」
二度ほど腕を捩ったが、拘束は解けない。私は顔を上げ、彼の陰鬱な眼差しを正面から見据えた。
「何ですか? 藤崎社長は、私が汚れた金でも稼いでいるとお思いで?」
「月五十万だ。これで足りるか?」
何の前触れもなく、彼は私を値踏みした。
私の動きが凍りつく。
「……なんですって?」
藤崎礼の瞳に、隠そうともしない嘲りの色が浮かぶ。
「金に困っているんだろう? 桜ヶ丘でジジイどもの相手をするくらいなら、俺が買ってやる。五十万か? 百万か? 足りないなら言い値をつけてみろ」
パァン——!
乾いた平手打ちの音が、深夜の空気に炸裂した。
藤崎礼の顔が横に弾かれる。その冷傲な頬に、みるみるうちに五本の指の跡が赤く浮き上がった。
少し離れた場所に停められた高級車から、婚約者が悲鳴を上げて飛び出してくる。
平手打ちをした掌が痺れて感覚がない。それでも私は背筋を伸ばし、最後の矜持を振り絞って彼を見据えた。
「藤崎礼。あなたはご自分の人生を大事になさい」
「あまり首を突っ込まないで。あなたのその高貴な格が汚れるわ」
言い捨てると、私はタクシーのドアを開け、振り返りもせずに車内へと滑り込む。愕然と立ち尽くすその男を、夜の闇に置き去りにして。
