第2章
警察署の灯りは眩しく、私は冷たい長椅子に腰掛けていた。江川花は私との間に安全な距離を保ち、俯いたまま一言も発しない。
「安藤さん、今後はこのような危険な真似はしないでください」
警察官はため息をつき、ファイルを閉じた。
「娘さんを守るためとはいえ、他人の乗り物を無断で使用したことや暴力行為は許されません」
私は頷いたが、心の中に後悔の念は一片もなかった。
もう一度同じ状況になっても、私は同じことをするだろう。
たとえ現実世界でこんな目に遭ったとしても、絶対に譲れない。
これは、人としての最低限のラインだ。
林田一郎と彼の仲間二人は、別の部屋へ連れて行かれた。
ガラス越しに、彼らが厳しく叱責され、顔からふてぶてしさが消え失せていくのが見えた。
「特殊な状況を考慮し、今回は不問とします」
警察官は最終的にそう告げた。
「神谷さんも自転車の件はこれ以上追及しないとのことです。もう帰っていいですよ」
警察署を出ると、夜は既に更けていた。
江川花は終始俯いたままで、まるでこうした状況に慣れているかのようだった。
漫画の中では、彼女の母親は五歳の時に亡くなり、父親は仕事に追われ育児を疎かにしていた。その父親も半月前に交通事故で他界し、継母である私が家業の小さな会社を引き継ぎ、おまけに彼女を追い出そうとまでしていたのだ。
どうりで私に対してこれほど警戒するわけだ。
「花ちゃん、うちに帰りましょう」
私は探るように手を差し伸べた。
江川花は勢いよく一歩後ずさり、その瞳に怒りと恐怖を煌めかせた。
「安藤さん、いい人を演じるのはやめてください!」
感情の昂ぶりで彼女の声は震えている。
「ずっと私のことを見下していたくせに、今さら心配するふりをして、一体何がしたいんですか?」
私は呆然とした。月明かりの下、彼女の制服の襟元では隠しきれない青紫の痕跡に気づく。それは、いじめによってつけられた傷跡だ。
どうやら原作漫画における江川花のいじめは、私の想像以上に深刻だったらしい。
「安藤さん!」
背後から聞き慣れた声がした。神谷拓が小走りでやってきて、私に深々と頭を下げる。
「すみません、僕の勘違いでした。あんな状況だと知っていたら、必ず僕が助けに行きましたのに」
「いえ、私の方が無鉄砲でした」
私もお辞儀を返す。
「神谷さんが通報してくれたおかげで、大惨事にならずに済みました。ありがとうございます」
神谷拓ははにかむように笑い、一枚の名刺を差し出した。
「これ、僕の名刺です。もし何かお困りのことがあれば、いつでも連絡してください」
名刺を受け取ると、「神谷テクノロジー株式会社」の文字が印刷されていた。
「よかったらLINE交換しませんか?」
彼は付け加えた。
「万が一のために」
私は快く同意し、スマートフォンを取り出して彼とフレンドになった。
江川花はそれを傍らで冷ややかに見ていたが、不意にくるりと背を向けて歩き出した。
「花ちゃん、待って!」
私は後を追う。
「どこへ行くの?」
「私のアパートに帰ります」
彼女は振り向きもせずに言った。
それで思い出した。漫画の中で、彼女は家賃の安さから治安の悪いアパートに住んでいたのだ。
私は眉をひそめる。
「あそこは危ないわ。特に女子高生一人には。うちに帰りましょう」
「結構です」
彼女の口調は硬かった。
私は歯を食いしばった。どうやら非常手段に出るしかないらしい。彼女が角を曲がった瞬間、私は素早く前に回り込み、彼女を打ち据えて気絶させた。
江川花はくぐもった声を漏らして意識を失い、私はぐらりと揺れる彼女の体を慌てて支えた。
「どうしたんですか?」
神谷拓が驚いて駆け寄ってくる。
「疲れすぎたみたいで、急に倒れちゃって」
私は嘘をついた。
「家まで送らないといけないんですけど、こんな時間ですし……」
「もうタクシーを予約してあります。もうすぐ着きますよ」
神谷拓はスマートフォンを見て言った。
「すぐそこの角です」
「本当に助かります」
私は感謝を述べた。
十分後、私たちは世田谷区にあるマンションに到着した。私は江川花を客間のベッドにそっと寝かせ、布団をかけてやった。
一時間後、江川花はベッドから弾かれたように跳ね起き、警戒しながら辺りを見回した。
「ここはどこ?」
「私の家よ」
私は温かいお茶を差し出す。
「正確に言えば、私たちの家」
江川花は目を細めた。
「私に何をしたの?」
「ちょっと眠ってもらっただけ」
私は肩をすくめる。
「明日は秋葉原にでも行って、新しい服や生活用品を買いに連れて行ってあげるつもり」
「どうして?」
彼女は用心深く訊ねる。
「あなたが私がお父さんのお金を使うのを嫌っていたんじゃなかったの?」
私は罪悪感を装った。
「本当に後悔してるの。高校生をいじめるなんて……本当に間違ってた。だから今、あなたに償いがしたい。うううっ、だからママにチャンスをちょうだい!」
江川花の瞳から疑念は少しも消えなかったが、それでも彼女はお茶を受け取り、そして大きな音を立ててバスルームのドアを閉めた。
身支度を終えた江川花は、昨夜のうらぶれた少女とはまるで別人のように、清楚で可愛らしく見えた。私は車を呼び、彼女を連れて秋葉原の商業エリアへと向かった。
彼女は遠慮なく最も高価な制服や生活用品を選んだ。懐は痛んだが、これが名目上とはいえ私の娘に着せるものだと思えば、この程度のお金は大したことではないと思えた。
ちょうど私たちが店を出ようとした時、甲高い女の声が背後から飛んできた。
「あら、江川さん、金主でも見つけたのかしら? 良かったじゃない、もうあんなお古のボロを着なくて済むのね」
振り返ると、桜花高校の制服を着た女子生徒の一団がいた。先頭に立つ少女は厚化粧で、その眼差しは悪意に満ちている。
江川花の体は明らかに強張り、顔色がさっと青ざめた。
私はすぐに江川花の前に立ち、背筋を伸ばす。
今こそ、私の出番だ。
