第4章 人の心は測り難し
言い終えると、白石凛はソファの上のバッグを掴み、西園寺昴を一瞥もしないまま外へと歩き出した。
「白石凛、待て……」
西園寺昴はその長い脚を動かし、白石凛を追いかけた。
男女の体力差もあり、西園寺昴はすぐに白石凛に追いつく。
白石凛は彼を振り切ろうと歩調を速めた。
「トゥルルル」
唐突に電話のベルが鳴り響く。
続いて、男の足音が止まった気配がした。
白石凛は西園寺昴がその着信音を使っているのを聞いたことがなかった。彼女は何かに導かれるように歩調を緩め、男が何を話しているのか耳を澄ませた。
「なんだって、子供に問題が? すぐに行く……」
その一言が、白石凛の心を完全に氷の底へと突き落とした。
あの特別な着信音は、神田ミユ専用に設定されたものだったのだろう。そして今立ち止まったのも、神田ミユの子供に問題が起きたからだ。
白石凛は自嘲気味に笑った。
西園寺昴の自分への感情を疑ってはいない。だが彼の心の中では、グループ企業より重要なものなどないのだ。
今や神田ミユの子供とグループの継承権は固く結びついている。今後、彼がグループの後継者の座を扱うのと同じように、神田ミユとその子供を扱うことは必然だった。
彼女はもう、神田ミユとの長年にわたる強いられた競争(マウンティング)にうんざりしていた。自分の家庭を持ちたいと願ったのも、心から自分だけを見てくれる最愛の人が欲しかったからだ。
愛情に不純物が混ざってしまえば、それは変質したキャンディのようなもので、吐き気を催させるだけだ。
そう思い至り、彼女は親友のアンナにメッセージを送った。
『アンナ、どこか貸しに出されてる家を知らない?』
西園寺昴は電話を切り、廊下の突き当たりに消えていく女の背中を見つめ、眉をひそめた。
「嶋村良三」
傍らに控えていたアシスタントが歩み寄る。「今すぐ奥様をお引き留めしますか……」
「いや、いい。千海都へ行って、以前俺が予約しておいたあのジュエリーを奥様のところへ届けてくれ」
「あのジュエリーは、先に神田様へお送りすると……」
千海都のジュエリーの品質は、西園寺昴が海外から買い付けたものより遥かに劣る。ブランド物ではあるが、デザイン性や希少価値は以前オークションで落札したものには遠く及ばない。
「俺は子供の様子を見に行く。先にお前が奥様に届けてくれ」
西園寺昴はそう言うと、エレベーターホールへと向かった。
エレベーターの冷たい白い光が、彼の殺気立った横顔を浮き彫りにする。
白石凛もいずれ理解するはずだ。俺は全て二人の未来のためにやっているのだと。
もし継承権がなければ、彼と白石凛がこれまで舐めてきた辛酸は全て無駄になってしまう。
その頃、白石凛は既に帰宅していた。
使用人が近づいてきてスリッパを差し出したが、彼女は受け取るのを忘れ、裸足のまま冷たい床の上に立っていた。
錯覚かもしれないが、冷たい床の方がかえって温かく感じられた。
目の前の部屋には、至る所に二人の過去の思い出が溢れている。視線が止まるたび、白石凛はそこで過ごした温かな瞬間を思い出してしまう。
だが、その甘い記憶は今、針のように胸を刺す。
彼女は部屋へと向かった。
彼女は諦めが悪い人間ではない。ただ相手が西園寺昴だったからこそ、耐えることを選んできたのだ。
数日前の彼女の自信満々な様子を思い出し、白石凛は目が赤くなるほど笑った。
人の心は変わりやすいと言うが、故人の心でさえ変わりやすいものだ。
やはり人の心こそ、最も理解し難い。
そう考えながら、白石凛はスーツケースを取り出し、適当に数着の服を詰め込んだ。
少し考えて、彼女は西園寺昴が買い与えた高価な服や宝石もスーツケースに入れた。独立して生きていくには金が必要だ。プライドだけで自分と子供の生活の質を下げるような真似はしない。
スーツケースを閉じた時、玄関でドアが開く音がした。
白石凛の心臓が縮み上がる。
まさか西園寺昴が帰ってきたのか?
もし西園寺昴が帰ってきたなら、今日出て行くのは不可能になる。
彼と長年付き合ってきた彼女は、彼の気性をよく知っていた。表面上は穏やかだが、一度決めたことは譲らない強引な性格だ。そうでなければ、彼女もこれほど早く離婚を切り出したりはしなかっただろう。
意を決して部屋を出ると、そこに西園寺昴の姿はなかった。
玄関に立っていたのは嶋村良三だった。
嶋村良三の手にある袋を見て、彼女はすぐに状況を理解した。
「奥様、こちらのジュエリーと贈り物は、西園寺社長がお届けするようにと」
嶋村良三の手には七、八個の袋があり、床にも十数個の袋が置かれていた。どの袋にも巨大なロゴが印刷されている。その中には、神田ミユが好むブランドもいくつか混じっていた。
白石凛は心の中で冷笑した。
「奥様、社長もグループとお二人の共通の未来のためにされていることです。これらを受け取って、どうかもう社長を責めないでください」嶋村良三はそう言ってブランドの袋を白石凛に差し出した。
白石凛はスーツケースを引きながら、嶋村良三をじっと見つめた。
「嶋村良三、私たちももう八年の付き合いになるわよね」
嶋村良三は訳が分からず、頷いた。「西園寺社長がグループに入社されたばかりの頃から、奥様とは面識がございます」
当時の西園寺昴は、一族から見捨てられた隠し子に過ぎなかった。一族は体面のために、嫌々ながら彼にディレクターの職を与えたのだ。
「あの頃の奥様は凄腕のジュエリーデザイナーで、社長ともお似合いで……」
「なら知っているはずよ。私が一度決めたら振り返らないってこと」白石凛は嶋村良三の言葉を遮った。
「奥様……」
「西園寺昴に伝えて。離婚は、絶対にすると」
白石凛はそう言い放ち、床の上の紙袋を拾い上げた。西園寺昴が償いたいというのなら、彼女も気取って受け取り拒否などしない。
何しろ、彼女の五年の青春、時間、そして愛情は、この数個の袋よりもずっと価値があるのだから。
白石凛は車に乗り込むとすぐに、いくつかの袋を中古市場に出品した。
これらは高級品市場でも需要の高い品々だ。
贈り物を一通り売り払ったところで、電話が鳴った。親友のアンナからだ。
「凛、何があったの? そんなに急いで家を探すなんて」
白石凛は西園寺昴のことを簡単にアンナに伝えた。アンナは電話の向こうで激怒した。「あの西園寺昴、ろくでもない男ね! あんたが彼のためにどれだけ苦労して子供を授かったと思ってるのよ。裏で神田ミユに子供を作らせて、しかもそれがダメになりそうだからって飛んでいくなんて、脳みそ腐ってるんじゃないの!?」
「あんたが彼を選んだ時、私は彼のこと家庭を大事にする人だと思ってたのに。幼馴染だしね。まさかこんな恥知らずだったなんて!」
親友が自分のために怒ってくれるのを聞いて、白石凛は逆に異常なほど冷静に感じられた。
「いいのよ。子供が生まれる前にあの人の本性が分かって、生まれてから知るよりはマシだったわ」白石凛は言った。「家のこと、引き続き探してくれる?」
「そういえば、友達が海外に行ってて、ちょうど家が空いてるの。二ヶ月くらいなら仮住まいできるけど、どう?」
白石凛はアンナから送られてきた間取り図と位置情報を確認した。
普通の2LDKで、広くはないが都心にあり、交通の便も良い。
「こんないい場所、家賃も安くないでしょうね」白石凛は言った。
西園寺昴の支援がなくなった今、彼女も財布の紐を締め、一銭たりとも無駄にはできない。
「彼、急いで出て行ったから、今日中にでも引っ越して契約してくれるならって」アンナが言った。白石凛は焦っていたため、アンナがその言葉を言う時に一瞬口ごもったことに気づかなかった。
アンナの助けもあり、白石凛はその日のうちにその温かみのある1LDKに引っ越した。
アンナによると、大家は急遽出国したため、LINEでの契約のみになるとのことだった。
白石凛は大家のLINEを追加した。そのアイコンは美しいサファイアのカット面で、透き通るような光の輪を放っていた。
なぜか、白石凛はその画像に見覚えがあるような気がした。
彼女は契約書を送ったが、相手からの返信はずっとなかった。
白石凛が眠りにつこうとした時、携帯電話が鳴った。
写真には、神田ミユが西園寺昴の屋敷のベッドに横たわり、以前彼女が好きだったピンクのシルクのパジャマを着ている姿が写っていた。そして写真の片隅、彼女の足にはあの「人魚の涙」が巻かれていた。
