第5章 冒険
腹部を襲う鋭い痛みに、白石凛は呻き声を漏らした。頭がずきずきと痛み、こめかみの血管が激しく脈打っている。
「気に入ってくれてよかった。オークションのニュースを見て、半日時間を作って落札してきたんだ。君のために」
西園寺昴の甘い言葉が耳元で蘇る。だが今、その言葉は鋭利な刃物となって彼女の鼓膜を突き刺していた。
あの『人魚の涙』は、私のために買ったと言っていなかったか?
なぜ今、神田ミユの足首にあるの?
微かな血の匂いが部屋に漂い始めた。
白石凛が視線を落とすと、スカートの上には既に紅い血の花が点々と咲き広がっていた。
赤ちゃん……私の、赤ちゃん……。
彼女は震える手を伸ばして携帯電話を掴み、混乱の中で緊急連絡先の短縮ダイヤルを押した。
痛みで視界が霞む。呼び出し音が鳴り始めてから、彼女はようやく思い出した。自分が設定している緊急連絡先は、ずっと西園寺昴だったことを……。
彼は今、神田ミユに付き添っているはずだ。私の電話に出る時間などあるはずがない。
白石凛は歯を食いしばり、ベッドサイドの携帯電話を探った。
指先が画面に触れた瞬間、電話から無機質で冷たい女性の自動音声が流れた。
『申し訳ありませんが、おかけになった電話は現在出られません。しばらく経ってからおかけ直しください……』
西園寺昴のプライベート携帯は、仕事中や会議中は電源が切られているはずだ。だがアナウンスは「電源が入っていない」ではなく「出られない」だった。
彼は電話を受けられなかったのではない。私の電話に出る時間がなかったのだ……。
結婚して数年、彼が自分の電話に出なかったのはこれが初めてだった。
やはり、物事には始まりがあれば、結果も透けて見えるものだ。
西園寺昴は今頃、神田ミユのそばにいるのだろう。
白石凛は自嘲気味に笑った。決心したはずなのに、西園寺昴の裏切りを思うと、やはり心は千々に乱れ、ナイフで切り刻まれるように痛む。
その苦しみは骨を虫に齧られるようで、心の底から深い無力感が湧き上がってきた。
そう思った瞬間、白石凛は立ち上がってドアへ向かおうとしたが、無力感と記憶が一気に押し寄せ、力が抜けて腹を抱えたまま床に倒れ込んだ。
私と子供は、今日ここで死ぬの?
いいえ。
白石凛は深く息を吸い込み、自分の腕を強く掴んだ。
お腹の中のこの小さな命のために、あまりにも多くの苦労をしてきた。今やこの子は私の唯一の肉親だ。こんなところで失うわけにはいかない!
どこからそんな力が湧いてきたのか、彼女は立ち上がり、コートを羽織ってよろめきながらドアへと向かった。
普段なら簡単に回せるドアノブが、今はまるで千鈞の重さのように感じられる。白石凛は最後の力を振り絞ってドアを開けた。下半身からは血が絶え間なく流れ出し、絶望が胸から込み上げてくる……。
その時、誰かが通りかかった。白石凛は顔を上げて相手を見たが、涙で視界が滲んでよく見えない。ただ背の高い男性であることだけが分かった。
相手の腕を掴み、白石凛は喉の奥から血の味がするのを感じながら、辛うじて口を開いた。
「お願い、助けて……病院へ……」
言い終えると同時に、白石凛は目の前が真っ暗になり、相手の体に倒れ込んだ。
なぜか、その人の匂いに懐かしさを感じた。他人行儀ではあるが、異常なほど温かい。
心の奥底に封印されていた記憶が一瞬、目の前をよぎった。それが何だったのか思い出す間もなく、白石凛は意識を失った……。
薄れゆく意識の中で、相手が自分を横抱きにし、急いで階段を駆け下りていくのを感じた。
あなたなの……西園寺昴……。
「スバル……私たちの子供を、守って……」
次に目が覚めた時、彼女は既に病室のベッドの上にいた。
人のいない病室は静まり返り、点滴の管から落ちる滴の音だけが響いている。
彼女がナースコールを押すと、五十代くらいの女性が入ってきた。
「日名先生……」
白石凛は口を開いたが、喉が酷く渇いており、一音発するごとに喉が引き裂かれるように痛んだ。
「横になっていなさい。しばらくは絶対安静よ」
日名医師は彼女を見つめた。その眼差しは心痛に満ちていた。
「先生、私の子供は……」
白石凛は自分のお腹を撫で、焦るように答えを待った。
「赤ちゃんは今のところ無事よ」
「ありがとうございます」
白石凛は胸のつかえが取れたように感じた。
「ただ、今のところは、よ」医師は言った。「まだ三ヶ月にも満たないのに出血したの。これはとても危険な状態で、この子は保たない可能性が高いわ」
日名医師の言葉は、まるで冷水を浴びせられたかのようだった。白石凛は一瞬にして天国から地獄へ突き落とされた気分になった。
彼女は顔を上げて日名医師を見た。医師の目には心配の色が浮かんでいた。
彼女は日名医師が定年退職する前の最後の患者になるはずだった。体質改善を始めた頃から、ずっと白石凛の主治医だった。彼女が体を整え、この子を授かるまでずっと付き添ってくれた……。
「運ばれてきた時にエコー検査をしたけれど、子宮壁がとても薄くなっていて、着床の状態も良くないわ。私の提案としては、中絶をお勧めするわ」
日名医師はそう言うと、忍びなさそうに顔を背けた。
白石凛は布団の端を強く握りしめ、医師の言葉を反芻した。
この子を産むために、彼女は一年で三百回以上の注射を打ち、数え切れないほどの苦い薬を飲んできた。
もしこの子を諦めれば、これまでの努力は全て水の泡となる。ましてや今、彼女の肉親はこの子だけなのだ。この子が欲しいのは、西園寺昴のためだけでなく、自分のためでもあった。
神田家では、彼女は毎日倉庫を改造した小部屋に住まわされていた。そこは湿気が多くて狭苦しく、幅一メートル六十センチのベッドさえ置けなかった。
母は常に神田ミユを贔屓し、彼女が成人するとすぐに嫁いで家を出るよう急かした。あの家は、決して彼女の家ではなかった。
彼女はかつて西園寺昴との家を自分の居場所だと思っていたが、まさか西園寺昴が……。
「先生、本当に他に方法はないんですか? 私、どうしてもこの子を失いたくないんです」
白石凛は日名医師の袖を掴み、瞳には涙が溢れていた。
日名医師は深くため息をついた。
「もしどうしてもこの子を残したいと言うなら、治療を続けなければならないし、定期的な鍼治療と体調管理も必要になるわ。出産の時も命に関わる危険があるかもしれない。自分の命を懸けるつもり?」
日名医師は眉をひそめ、心配そうな顔をした。
彼女は白石凛が無事にこの子を産むことを願ってはいるが、そのために白石凛が命を落とすようなことは見たくなかった。
「私は一生子供を産まなかった。女性は必ずしも子供を産まなければならないわけじゃないのよ。もしご主人がどうしても子供が欲しいと言うなら、あなたの体の状態をきちんと話すべきだわ」
「私と夫は、もう離婚する準備を進めています。この子は……」
白石凛は日名医師を見た。その表情は異常なほど固い決意に満ちていた。
「私自身が残したいんです。この子は、この世界で私の唯一の家族ですから」
日名医師はため息をつき、白石凛を見る目に哀れみの色が混じった。
「分かったわ。協力しましょう。でも覚えておいて、この子のために、あなたは妊娠する時よりももっと多くの苦しみを味わうことになるかもしれないわよ」
白石凛は首を振った。
「怖くありません」
白石凛は入院して日名医師の治療を受けることになった。鍼治療は容易ではなく、毎日針を打たれる腕は全体が腫れ上がり、腕の痛みが全身に広がった。
三日目の治療が終わる頃には、腕が自分のものではないように感じられた。
入院費を支払い、彼女は病室へと戻っていった。
廊下を歩いていると、ふと前方の影に見覚えがあることに気づいた。
廊下の角を曲がったところで、その人物が病衣を着た女性を支えているのが見えた。
西園寺昴と、神田ミユ?
