第7章 ネックレス
「そうだ」
その言葉を聞いて、西園寺昴は白石凛を強く抱きしめた。
やはりそうだ、彼女はこんなにも自分を愛しているのだから、自分のために譲歩してくれるはずだ。
次の瞬間、白石凛は彼を激しく突き飛ばした。枯れ落ちた薔薇のように顔面蒼白で彼を見つめる。
「でも、私は嫌よ」
「凛、あの時、君は俺のためにあんな大怪我を負ってくれたのに、今は俺のために少し我慢することもできないのか? 俺たちは長年の付き合いだ、とっくに互いに切り離せない一部になっているだろう」
男は手を伸ばし、彼女の頬に触れようとしたが、白石凛は顔を背けた。西園寺昴の動きがその場で凍りつく。
「凛、本当に捨てられるのか?」
白石凛は西園寺昴を見た。その瞳は悲しげだが、揺るぎない意志が宿っていた。
「西園寺昴、嘘はつきたくないわ。あなたと別れるのは辛い」
「でも、誰かがいなければ生きていけないなんてことはないの。西園寺昴、神田ミユが待っているわよ」
「凛……」
白石凛は男の引き留める言葉を無視して背を向けた。
一階の薬局に行き、薬を受け取ろうとしたところで、壁に寄りかかってニヤニヤとこちらを見ている神田ミユと出くわした。
「お姉ちゃん?」
白石凛は薬を手に持ち、警戒して神田ミユを見た。
「お姉ちゃん、そんなに怖がらないでよ。私はあなたと西園寺社長の仲を壊そうなんて思ってないわ」
白石凛は神田ミユを相手にしたくなかった。彼女の行動が全てを物語っている。
理由もなく自分の服を着て、自分のベッドに寝転がって挑発するなんてあり得ない。
「あなたも少しは聞き分けよくなりなさいよ。西園寺社長と喧嘩なんてしないで。だって、パパとママがまだあなたを家から追い出してないのは、あなたにまだ西園寺社長との関係があるからなんだから」
神田ミユは頬にかかる髪を弄りながら、面白そうに白石凛を見ていた。
「私はあの人たちの考えなんて気にしたことないわ。離婚は絶対にする」
神田ミユは白石凛のその気高い様子を見て、心に不快感が満ちた。
「何、気取ってんの?」
神田ミユは白石凛の行く手を遮り、襟元から一本の真珠のネックレスを取り出した。
白石凛の視線が真珠のネックレスに集中し、心の中の怒りが再燃した。
「お姉ちゃん、このネックレス覚えてるでしょ」
神田ミユの手がネックレスを撫でる。白石凛を見上げる目は挑発に満ちていた。
「当時、ママはお姉ちゃんにあげるって言ってたけど、結局私にくれたのよ?」
白石凛はこのネックレスを覚えている。
これは彼女の両親の愛の証だった。父が亡くなった時、遺品のほとんどは白石家の親戚に持ち去られ、この真珠のネックレスだけが残った。
母は白石凛に、誕生日になったらネックレスをあげると約束していた。
だが彼女の誕生日の日、神田ミユはこのネックレスを見るなり奪い取ったのだ。
白石凛は覚えている。神田ミユがネックレスを持って自分に見せびらかしていた姿を。
彼女が理を説いて抗議しても、母はやはり神田ミユの味方をした。
『ミユは妹なんだから、あなたが譲ってあげなさい』
『あなたが聞き分けがいいのは知ってるけど、神田家のおかげで私たち母娘は今の生活ができているのよ。ミユに良くするのは神田の叔父様への恩返しなの』
あの仲睦まじい家族の姿を思い出すと、白石凛は頭のてっぺんから爪先まで冷え切るのを感じた。
「お姉ちゃん、私が欲しいものは、私のものにしかならないの」
神田ミユは勝ち誇った笑みを浮かべた。
「知らないでしょうけど、この子を妊娠する前、私と西園寺社長がお姉ちゃんのベッドで何回したか分からないわよ」
「男なんてみんな心変わりするものよ。それに、私たち二人はお姉ちゃんたちより相性がいいの」
「西園寺社長の心はとっくに私にあるわ」
神田ミユはそう言いながら、自分の顔を撫でた。
「私が子供を産めば、西園寺家に嫁ぐのは時間の問題よ」
「幼馴染だから何? お姉ちゃんがスバルのためにどれだけ苦労したって、最後に西園寺グループ社長夫人の座に座るのは私なんだから」
白石凛は神田ミユの挑発的な表情を見上げた。
彼女の離間工作の手口は知っているが、彼女の言葉を完全に信じないわけでもなかった。
西園寺昴が今年、何度か彼女を休暇に行かせたこと、彼が不可解に連絡を絶ったこと、そしてその後の「身体的」な償い、全て覚えている。
男は外でつまみ食いをすると、家に帰ってからより情熱的になるものだ。
あの時の彼の情熱は今、鋭い剣となって彼女の胸を刺している。
信頼は一度壊れれば、二度と元には戻らない。
神田ミユは白石凛が呆然としているのを見て、口元に得意げな笑みを浮かべた。
彼女は身を起こし、白石凛の目の前まで歩み寄ると、耳元で囁いた。
「白石凛、薬を飲んで体調を整えて、西園寺社長の子供を欲しがってるんでしょう?」
白石凛は振り向き、神田ミユの得意げな視線と向き合った。
「彼、私と一緒にいる時に言ってたわよ。お姉ちゃんは薬漬けで体中から苦い匂いがするって。ベッドの上でもつまらないし、私の万分の一にも及ばないって……」
次の瞬間、白石凛は手を振り上げ、神田ミユの頬を張った。
その平手打ちは決して重くはなかったが、神田ミユは勢いを利用して床に倒れ込み、お腹を押さえて泣き出した。
「お姉ちゃん、私はお姉ちゃんの結婚を壊したくないの。ただ西園寺社長を助けたかっただけなのに」
「私は、二人には仲良く一緒にいてほしいのに」
また始まった。
白石凛の心の中でその言葉が繰り返される。
毎回、神田ミユが何かを奪おうとする時は、傷ついたふりをして全ての責任を彼女に押し付け、周囲の同情を買うのだ。
すぐに西園寺昴が顔を真っ黒にして歩み寄り、床から神田ミユを抱き上げた。
神田ミユは顔を覆い、か弱い小鳥のように西園寺昴の胸に寄りかかる。
「スバル、お姉ちゃんを責めないで。彼女はただあなたを愛しすぎているだけなの……」
「神田ミユ、演技はやめなさい。さっき私に言ったこと、西園寺昴の前で繰り返してあげましょうか?」
白石凛は冷笑した。
もし神田ミユが挑発してこなければ、自分が彼女を打つはずがないではないか。
「ミユは妊婦だ。彼女が何を言ったにせよ、それが暴力を振るっていい理由にはならない」
西園寺昴は失望に満ちた目で言った。
「凛、俺は本来、君がこの件を受け入れるのにもっと時間をあげようと思っていた。だが君のやり方には失望したよ。最初から君には隠しておくべきだった」
白石凛が口を開こうとした瞬間、神田ミユが突然大声で泣き出した。
「スバル、お腹が痛い。さっき転んで赤ちゃんに障ったのかも」
「お姉ちゃんがわざとじゃないのは分かってるけど、赤ちゃんは、赤ちゃんは無実なのに……」
この嘘泣きの才能、白石凛はもう何百回と見てきた。
彼女が神田ミユを掴もうとすると、西園寺昴に強く突き飛ばされた。
男の眉間には深い皺が刻まれていた。
「凛、言ったはずだ。この子に手を出すなと。君と喧嘩をしたくない。家で俺を待っていろ」
西園寺昴はそう言うと、神田ミユを抱えて足早に去って行った。
白石凛はその場に立ち尽くし、胸に穴が開いたような感覚に襲われた。彼女は虚ろな目で西園寺昴を見つめた。
「私たち、小さい頃から一緒に育ったのよ。私がどんな人間か、神田ミユが長年どれだけ私のものを奪い、私がどれだけ濡れ衣を着せられてきたか、あなたは知らないの?」
「過去のことはもういい。俺が見たのは、君が確かにこの子を許容できないという事実だけだ。頭を冷やすといい」
西園寺昴は立ち止まったが、振り返ることはなく、神田ミユを抱いたまま大股でエレベーターに入っていった。
涙で視界が滲み、薬の箱は白石凛に握り潰されそうになっていた。
またあの馴染みのある血の匂いがした。足の間から血が流れているような気がする。
赤ちゃん、ごめんね。ママがダメだから、あなたを守れない……。
