第8章
腹部から伝わる激痛。
白石凛は身を起こそうともがいたが、結局そのまま床へと崩れ落ちた。
意識が途切れる寸前、誰かが体を抱き上げてくれた感覚があった。
その温かさは、早逝した父を思い出させる。
幼い頃、父もいつもこうして彼女を抱き、あちこちへ遊びに連れて行ってくれたものだ。
目の前で父と母の愛の証である真珠のネックレスが揺れ動き、胸から込み上げる苦痛と、喉の奥に広がる鉄錆のような血の味。
お父さんが、迎えに来てくれたの?
「凛? 凛?」
視界が徐々に鮮明になり、目に映ったのは日名先生の焦燥に満ちた顔だった。
「治療が終わったばかりなのに動き回るなんて、何を考えているんだ」
「ごめんなさい、日名先生」白石凛の声は弱々しい。
その時、彼女は病室の傍らに立つ人影に気づいた。
ベッドサイドに佇むその人物は、黒のスーツに身を包み、その完璧なスタイルを際立たせていた。
なぜか、白石凛はその後ろ姿に見覚えがあるような気がした。
男が振り返り、白石凛を見た。窓から差し込む光が、彼の端正な横顔の輪郭を縁取っている。
「久しぶりだな、白石凛」
低く、磁力を帯びたその声は、過去の記憶と共に胸に押し寄せてきた。
白石凛は身を起こそうとする。「久しぶりね、黒木蓮」
彼女が起き上がろうとするのを見て、男は制するように歩み寄った。「目が覚めたばかりだ、動くな。横になっていろ」
彼はわずかに身を乗り出し、彼女の瞳を覗き込む。
五年という歳月が流れても、黒木蓮は記憶の中と同じように、どこか他者を寄せ付けない冷ややかさを纏っていた。
ただ、歳月は彼をより洗練させ、鞘から抜かれた宝剣のように、鋭く冷徹な輝きを放たせていた。
白石凛は沈黙した。「助けてくれてありがとう」
黒木蓮は短く頷いた。その冷淡な視線が一瞬彼女の顔に留まり、瞳の奥が深みを増す。
「礼には及ばない。俺も五年後にこんな形で病院で再会するとは思わなかった」
そう、もう五年になる。
白石凛の胸に淡い苦みが広がった。
かつてジュエリーデザイン界の天才と謳われたデザイナーが、今では病人のようにベッドに横たわり、一つの命を守るのに精一杯だ。
めちゃくちゃになった結婚生活と、ボロボロになった体以外、何も手に入らなかった。
「白石凛」黒木蓮は彼女をじっと見つめた。「どうやらあの時、君は選択を間違えたようだな」
日名先生は白石凛の無事を確認すると、気を利かせて二人に会話の空間を与えた。
病室は一瞬にして静寂に包まれ、医療機器の電子音だけが響く。
白石凛は音もなく掌を握りしめた。
五年前、彼女は海都で最も才能あるデザイナーだった。彼女が手掛けた『百花』シリーズのジュエリーは、発表されるや否や業界で絶賛された。
L・Sジュエリーが高額での買収を持ちかけたが、彼女はそれを断り、コラボレーションという形でのみ協力すると言った。
その後、黒木ホールディングスと共同制作した『夜灯華』シリーズは、国際的な賞を総なめにした。
『夜灯華』のショーでは、彼女と黒木蓮が共にランウェイを歩いた。
二人は芸能人ではなかったが、当時多くのカップルファンを獲得し、ファンが二人のために専用掲示板を作るほどだった。
まさにその時だ。彼女は西園寺昴のために自身のジュエリー工房を畳み、電撃結婚をして、彼の背後に隠れる女となったのは。
彼女がスタジオを売却した日、黒木蓮は彼女に会っていた。
彼は言った。『白石凛、君のような退路を断つ人間は、大抵後悔することになる』と。
あの頃の彼女はどこからそんな勇気が湧いてきたのか、『幼馴染さえ信じられないなら、この世に信じるに値するものなどない』と言い切ったのだ。
今にして思えば、やはり黒木蓮の方が物事の本質を見抜いていた。
黒木蓮は一呼吸置いた。「白石凛、あの頃、君は俺が心から敬服するライバルであり、パートナーだった」
男の口調はよそよそしかったが、確信に満ちていた。
白石凛は、黒木蓮の方が自分よりも自分を信じているのではないかとさえ感じた。
彼女は力なく笑った。
「黒木蓮、あなたが正しかったわ」
あの頃は業界の風雲児だった自分も、今や最も大切にしていた家庭に裏切られた。
黒木蓮の言う通りだ。夢と仕事以外は、誰もが裏切る可能性がある。
「まだジュエリー業界に戻りたいか?」黒木蓮が唐突に尋ねた。
「黒木蓮、よく分かってるでしょ。五年も経てば、新鋭のデザイナーも良い作品も山ほど出ている」白石凛は自嘲気味に笑った。「私が誇りに思っていた才能やセンスが、まだ通用するとは限らないわ」
黒木蓮の瞳が暗く沈む。「かつてのような高みに戻れないことを恐れているのか」
あれほど称賛され、多くの名作を生み出した人間が、今や新人と競い合い、ゼロから始めなければならない。その消耗する気力と努力は想像を絶するものだろう。
「そうかもね」
白石凛は無機質な白い壁を見つめた。
「どうあれ、今日はありがとう」
「最近、黒木ホールディングスではジュエリーのデザイン・ディレクターを求めている」黒木蓮はそう言いながらポケットから名刺を取り出し、白石凛の枕元に置いた。「もしその気になったら、いつでも連絡してくれ」
白石凛は黒木蓮の名刺を手に取り、驚きを隠せなかった。
「黒木蓮、あなた……」
「白石凛、俺たちは知り合いだ。知っての通り、俺は能力しか見ない」男はゆっくりと言った。「君が自分で作ったそのペアブレスレット、いい出来だ」
彼の視線が彼女の白い手首に落ちる。白石凛は目を伏せ、無意識にそのブレスレットを撫でた。
このブレスレットは元々バレンタインデーに、彼女が西園寺昴のためにデザインしたものだった。
「五年ね」白石凛は小さく呟く。「全てが変わってしまった。黒木蓮、私には……もうあの頃の能力はないわ」
かつての激しい愛情は消え失せ、残ったのは瓦礫の山だけ。
彼女の才能とひらめきも摩耗してしまった。
「白石凛、またジュエリーをデザインしたいか?」
黒木蓮は重ねて問うた。
その言葉に、白石凛の心が震えた。
初めて自分のデザインしたジュエリーを身につけてランウェイを歩いた時の高揚感、あの達成感は言葉では言い表せないものだった。今でも。
スポットライト、輝く宝石、そしてデザイン画を思い出すたび、彼女の心は情熱で満たされる。
ただ、本当にあの頃に戻れるのだろうか?
白石凛の迷いを見透かしたかのように、黒木蓮は口を開いた。
「時間が経っても変わらないものもある。俺は知り合いのよしみで名刺を渡したわけじゃない。君がデザインしたそのブレスレットを見て判断したんだ。分かるか?」
五年のブランクがあろうと、彼女の才能は健在だ。そう簡単に他人に奪えるものではない。
この五年間、彼女も何もしていなかったわけではない。毎年西園寺グループの作品には目を通していたし、長くデザインから離れていても、彼女には前衛的な審美眼と能力が備わっている。
黒木蓮のデザインに対する眼力を、彼女は一度も疑ったことはない。
もしかしたら、本当にできるかもしれない。
どうせ全てを失ったのだ、何を恐れることがある?
白石凛の心が微かに動いた。
今の彼女には仕事が必要だ。自分と子供を養うためだけでなく、あの汚らわしい男女から離れるためにも。
黒木蓮がくれたチャンスは貴重だ。無駄にはできない。
「黒木蓮、手順通りに履歴書を送らせてもらうわ」
白石凛は黒木蓮を見つめた。その瞳には澄んだ光が宿っていた。
黒木蓮の瞳の奥に、微かな笑みが浮かぶ。「黒木ホールディングスで待っている」
白石凛は頷き、頭の中は既にかつてデザインした作品のことでいっぱいになっていた。
黒木蓮のアシスタントは長いこと待ち続け、ようやく自社の社長が車に戻ってくるのを見た。「黒木社長……」
「デザイン部のディレクターを呼べ」
男はそう言うと腕時計に目を落とし、何を思ったのか、珍しく口元を綻ばせた。
アシスタントは目をこすった。
見間違いだろうか?
あの社長が、笑った?
