第9章 ママは遅れて来た
彼女は追い詰められた手負いの獣のように唸り声を上げ、血走った目で桐島蓮を睨みつけ、一歩も引こうとしなかった。
「あの子を監禁して虐待しておいて……病気になったら真っ先に私がやったと疑うの? 桐島蓮、あなたは人間じゃない!」
彼女の声は鋭く、そして枯れていた。底知れぬ悲憤を帯びたその絶叫は、広いリビング全体に響き渡り、周囲の使用人たちを震え上がらせ、頭を低くさせて息を潜めさせた。
白石麻里奈はその気迫に押され、思わず半歩後ずさったが、すぐに泣き出しそうな表情を作り、桐島蓮の袖を引いた。
「蓮お兄様、そんなに怒らないで……美月お姉様はただ気が動転しているだけで、わざとあなたに逆らってるわけじゃ……」
その言葉は、火に油を注ぐだけだった。
桐島蓮の額に青筋が浮かぶ。
「あいつ以外に誰がいる? 昨夜こっそり離れに行ったのは彼女だけだ! 何を企んでいるのか知れたもんじゃない。恐らくはこの不義の子が邪魔で、消してしまえばまた……」
「パァン――!」
乾いた音が、桐島蓮の勝手な憶測を断ち切った。
綾瀬美月は全身全霊の力を込め、平手打ちを見舞った。掌が痺れるほどだった。
彼女は桐島蓮の頬に瞬時に浮かび上がった赤い手形を死に物狂いで睨みつけた。その眼差しは、氷のように冷たい。
「この一発は、あなたの節穴の目と、豚のように愚鈍な頭への報いよ!」
極度の怒りで声は震えていたが、一言一句が鮮明だった。
「桐島蓮、あなたに父親になる資格はない。誰かの真心を貰う資格もない! あなたは一生、白石麻里奈が織りなす嘘の中で生きていればいいのよ!」
桐島蓮は打たれた顔を背け、信じられないという表情で頬を押さえた。瞳の中に嵐が渦巻く。
白石麻里奈が悲鳴を上げた。
「美月お姉様! なんてことを!」
綾瀬美月は彼女を無視し、ただ桐島蓮だけを死ぬ気で見据えた。この突然の一撃で彼が激怒し言葉を失っている隙を突き、彼女は条件を突きつけた。決然とした口調で。
「私が害したと決めつけるなら、いいわ! 今すぐ私があの子の看病をする! もしあの子に万が一のことがあれば、あなたに手を下されるまでもなく、この命で償ってやる! でも、もし今私を止めるなら、それはあなたにやましいことがあるからよ! 誰が本当にあなたの息子を害そうとしているのか、私が突き止めるのが怖いんでしょう!」
彼女の言葉は機関銃のように放たれ、桐島蓮に思考の隙を与えなかった。
彼女は最も過激な方法で、「息子の看病」と「潔白の証明」、そして「真犯人の告発」を強引に結びつけたのだ。
桐島蓮は確かに、彼女のなりふり構わぬ狂気と鋭い詰問に一瞬気圧された。
彼は見た。彼女の真っ赤な、しかし燃え盛る炎のような瞳を。そこにはかつてのような卑屈さや哀願はなく、背水の陣の覚悟と、彼を心悸させるほどの憎悪があった。
彼は咄嗟に反論の言葉が見つからなかった。
白石麻里奈が焦って口を挟んだ。
「蓮お兄様、そんなのダメよ。もし彼女がまた……」
「黙れ!」
桐島蓮は突然、苛立たしげに彼女を遮った。彼の視線は複雑に綾瀬美月の顔を巡った。
彼女に触れられるのも、逆らわれるのも不愉快だ。だが心の奥底に、微かな、自分でも認めたくない疑念が頭をもたげていた――。
もしかしたら……あの子は本当に……。
彼は猛然と白石麻里奈の手を振り払い、綾瀬美月を睨みつけ、硬い声で言った。
「いいだろう! 綾瀬美月、そのチャンスをくれてやる! 行って看病しろ! だが、もしあいつに何かあれば、絶対に生かしてはおかないからな!」
彼女がどんな手を使うか、見届けてやるつもりだった。
綾瀬美月はその許可を得て、張り詰めていた糸が切れ、倒れそうになった。
だが強引に踏みとどまり、彼らを一瞥もせず、踵を返して後院の方へと走り出した。足取りはよろめいていたが、切迫していた。
綾瀬美月はほとんど転がり込むようにして、あの陰湿な小部屋に入った。
彼女の息子。骨と皮ばかりに痩せ細った小さな体が、冷たいベッドの上で丸まり、顔を真っ赤にして高熱にうなされていた。呼吸は浅く、時折腹痛で苦しそうに呻いている。
綾瀬美月の心臓が鷲掴みにされ、息ができないほど痛んだ。
彼女はベッドに飛びつき、震える手で子供の熱い額に触れた。
「坊や……ママよ、ママが来たわ……」
声が詰まり、涙で視界が歪む。
子供は見知らぬ感触に怯えて身を縮め、虚ろで恐怖に満ちた大きな瞳を開けて彼女を見た。小さな口をへの字に曲げているが、声を上げて泣くことさえできない。まるで、苦痛を無言で耐えることに慣れてしまっているかのようだ。
その眼差しがナイフとなって、綾瀬美月の心を切り刻む。
彼女は悲痛をこらえ、限りなく優しい声で何度も何度も囁いた。
「怖くないわ、いい子ね、ママよ……ママが帰ってきたの……ごめんね、遅くなってごめんね……」
彼女はぬるま湯を用意し、恐る恐るタオルで子供の熱い体を拭いた。まるで希代の宝物を扱うかのように優しく。
記憶の中の曖昧な子守唄を口ずさむ。それは妊娠中、何度も夢見た光景だった。
子供は最初こそ強張って怯えていたが、母の指先の優しさと、途切れ途切れだが愛に満ちた歌声に、少しずつ警戒を解いていった。
彼は涙を流しながら自分に微笑みかけるこの女性をぼんやりと見つめた。血の繋がりに由来する本能が、不思議な安心感をもたらしていた。
綾瀬美月は根気強く白湯を飲ませ、綿棒で乾いた唇を湿らせた。
絶えず話しかけた。外の世界のこと、どれほど会いたかったか、もう二度と離れないということ。
どれくらい時間が経っただろうか。子供が苦しげに呻いた時、綾瀬美月は背中を優しく叩き、柔らかな声で言った。
「いい子ね、ママがいるわ、怖くないよ……」
子供は熱で意識が朦朧としていたが、極度の渇望が恐怖に打ち勝ったのか、唇を微かに動かし、ほとんど聞こえないほどの吐息のような音を発した。
「……マ……マ……」
不明瞭だったが、綾瀬美月にははっきりと聞こえた!
その瞬間、巨大な歓喜と切なさが津波のように彼女を飲み込んだ。
涙が決壊し、彼女は子供をきつく抱きしめ、声を上げて泣いた。
「ええ! ママよ! 聞こえたわ! 坊や、もう一度、もう一度ママって呼んで……」
子供は力を使い果たしたのか、また眠りに落ちたが、眉間の皺は少し和らいでいた。
綾瀬美月は失った宝物を抱きしめ、その微弱な心音を感じながら、これまで受けた全ての苦難が、この一言の「ママ」の前では報われたと感じた。
彼女はようやく、自分の世界と再び繋がることができたのだ。
……
書斎にて。
桐島蓮は苛立たしげにネクタイを緩めた。
綾瀬美月の決然とした眼差し、あの平手打ち、そして彼女が叫んだ「真犯人」という言葉が、脳裏で反復していた。
特に彼女が言及した三年前……そして白石麻里奈のこと。
彼は確かに麻里奈を疑ったことはなかったが、今日の綾瀬美月の狂気は、完全に演技とは思えなかった。
それに、あの子供……その出自を嫌悪してはいたが、あの眉目は……。
彼は猛然と内線電話のボタンを押した。
「佐々木秘書、入れ」
