第1章
礼奈視点
台所の時計が午後九時七分を指したとき、玄関で健一が鍵を開ける音が聞こえた。私は流し台から目を離さず、もう五分も磨き続けている同じ鍋を、執拗にこすり続けた。
十四時間。それが、今日私が動き回っている時間だ。朝五時に起きて朝食を作り、息子の太郎を着替えさせて食事をさせ、学校へ送り届ける。それから広告代理店で八時間、私の尻について同僚が飛ばす下品なコメントを聞き流し、五分おきに意見を変えるクライアントの相手をした。仕事が終わるとそのまま病院へ直行し、お父さんの血圧の薬と糖尿病の薬を受け取るためだけに四十分も待たされたのだ。
白い錠剤は一日二回、黄色いのは朝、オレンジ色のビタミン剤は昼食後。夫である健一よりも、私の方が彼の父親の服薬スケジュールを詳しく把握しているなんて。
「飯、あるか? 腹ペコなんだよ」
健一の声が台所の空気を切り裂いた。私は振り向かなかった。振り返らなくても、そこにどんな姿があるか手に取るようにわかるからだ。皺だらけのシャツ、緩めたネクタイ、そして私が何もかも放り出して自分の世話を焼いてくれるのを期待している、あの顔。
「残りが冷蔵庫に入ってるわ。電子レンジの場所、まさか忘れてないわよね」
「なんだよその態度は。礼奈」
態度、だって? 呆れてものが言えない。私はようやく振り返り、夫の顔を見た。かつてはイケメンだと思った男。腹がよじれるほど私を笑わせてくれた男。だが今の彼は、ただ疲れ果て、苛立っているようにしか見えない。そしてきっと、彼にとっても私は同じように見えているのだろう。
「健一、あなた今週はずっと帰りが九時過ぎじゃない。太郎は今夜、八時まで起きて待ってたのよ。『お父さん、いつ帰ってくるの?』って。今日学校であった発表会のこと、あなたが忘れてしまったんだと思って、あの子、泣きながら寝ついたわ」
健一は言い訳を並べ始めた。「俺だって、家族を路頭に迷わせないように、必死で働いてるんだぞ。少しは勘弁してくれよ」
「勘弁して、だって?」私は思わず笑ってしまったが、そこには何の可笑しさもなかった。「私は今日一日働いて、あなたのお父さんの通院の手配に二時間費やして、帰ってきて夕食を作って、太郎をお風呂に入れて、あなたが学校行事に来なかったことで傷ついたあの子をなだめるために絵本を四冊も読んで、七時半からずっとこのキッチンの片付けをしてるのよ。だからね、健一。勘弁してあげる余裕なんて、私にはこれっぽっちもないの」
「そんなの、普通だろ――」
「普通?」声が荒らげられた。「誰にとっての『普通』なの? あなたが仕事をして、好きな時間に帰ってくるのが普通? 残りのすべてを私が引き受けるのが普通だって言うの?」
彼は顎をこわばらせた。「俺は週に六十時間も働いて、この家のローンも太郎の学費も、何もかも払ってるんだ。俺は自分の役割を果たしてる」
「私は四十時間働いた上で、家のことも、あなたの両親の世話もしてるのよ」手が震え始め、私は流し台の縁を強く握りしめた。「今日、お母さんから電話があったわ。明日来るから、お母さんの好きなあの肉じゃがを作っておけって。近所さん相手に十分も私の悪口を言ってたそうよ。私は料理もろくにできない、ただの広告会社の女だ、ってね」
「母さんはもう年なんだ、本気で言ってるわけじゃ――」
「やめて。本気じゃないとか、私が神経質になりすぎだとか、絶対に言わせないから。八年よ、健一。八年もの間、私はあなたに釣り合わない、自慢の息子には不十分だって言われ続けてきたのよ」
健一は私から目を逸らした。怒鳴り返されるよりも、その方がずっと傷ついた。
「どうして一度だって私を庇ってくれないの? たった一度でいいから、私を追い詰めるのはやめてくれって、どうしてあなたのお母さんに言ってくれないのよ」
「母さんはもう六十八なんだぞ、礼奈。たまに口は悪いけど、悪気があってやってるわけじゃない」
「六十八歳でしょう、ボケてるわけじゃないわ。お母さんは自分が何をしてるかちゃんと分かってる」もう彼の顔を見ていられなくて、私は流し台の方へ向き直った。「もういいわ。この話をするのはもううんざり」
私たちは沈黙の中に立ち尽くした。背後で彼の呼吸音が聞こえる。きっと、現実と向き合わずにどうやってこの場を収めるか、そればかり考えているのだろう。
これが今の私たちだ。疲れすぎていて、まともな喧嘩ひとつ最後までやり遂げられない、二人の人間。
「もう二階に行くわ」
「……おやすみ」
階段を上っていく彼の足音を聞きながら、私は洗い物と、低く唸る冷蔵庫と、そしてこの八年間の失望が胸にのしかかったまま、一人取り残された。
台所の窓に映る自分の姿をぼんやりと見つめながら、いつから私はこんな人間になってしまったのだろうと考えた。いつから、自分の夫を疎ましく思う女になってしまったのだろう。昔は、彼のくだらない冗談に笑い転げ、駐車場に彼の車の音が聞こえるだけで胸を躍らせていたのに。今の私は、ただ四六時中疲れ果てていて、怒っていて、まるで溺れかけているのに彼からさらに石を投げつけられているような気分だ。
翌朝は、いつも通りの大騒ぎだった。太郎の朝食の世話をし、健一は会議があるとかで早々に飛び出していき、私はすべてが順調であるかのように振る舞う日課をこなした。ありがたいことに、健一の母親から電話があり、訪問を延期したいと言ってきた。わずかだが、息つく暇ができた。十時頃、居間で洗濯物を畳んでいると、部屋の隅で太郎が私のスマホをいじっているのを見つけた。
「太郎、お母さんのスマホで何してるの?」
太郎はビクッとして、スマホを取り落としそうになった。「なんでもないよ、お母さん。ちょっと見てただけ」
夕食前におやつを盗み食いしたときのような、あのばつの悪そうな顔をしている。だが、今回は何かが違っていた。
「見せてごらんなさい」
彼はおずおずとスマホを差し出した。画面には、安っぽいバラエティ番組のネット動画が映し出されていた。カップルが、あの馬鹿げた金属製のヘルメットのようなものを被って座っている。
「夫婦関係にお悩みではありませんか? パートナーとの心の距離を感じていませんか? 私たちの心理分析プログラムが、お二人の絆を深めるサポートをいたします。『あなたの心が読めるなら!』では、専門カウンセラーがお二人の気持ちを丁寧にお聞きし、より良い関係づくりのお手伝いをいたします。ご応募お待ちしております」
胃がすとんと落ちるような感覚に襲われた。「太郎……」
「お母さんとお父さん、ずっと悲しそうだから」太郎の声はとても小さくて、私の心を引き裂くようだった。「夜、お母さんが泣いてるの、聞こえるんだ。だから、もしお母さんがお父さんの考えてることが分かって、お父さんもお母さんの考えてることが分かれば、もう喧嘩しなくなるんじゃないかなって」
私は危うくスマホを落とすところだった。六歳になる我が子が、両親の結婚生活が崩壊しかけていることに気づき、それを修復しようとしているのだ。
私は彼の前に膝をつき、その小さな体を抱き寄せた。「ああ、太郎……」
「隆太くんちみたいに、離婚しちゃうのは嫌だよ。お父さんといなくならないで。僕を置いていかないで」
その言葉で、私は我慢できなくなった。この子は、家族をどうやって救えばいいのか悩みながら、ずっとこの不安を一人で抱え込んでいたのだ。
「どこへも行かないわよ、太郎」私は彼の髪に顔を埋め、ささやいた。
三日後、私の電話が鳴った。
「鈴木さんでいらっしゃいますでしょうか? 『あなたの心が読めるなら!』の伊藤沙織と申します。突然のお電話で失礼いたします。実は、鈴木さんご夫妻にぜひ番組へのご出演をお願いしたく、ご連絡いたしました」
「えっ、なんですって?」
「実は、ご子息の太郎くんからお手紙をいただいたんです。お父様とお母様のことをとても心配されていて、お二人に仲良く幸せになってほしいという、本当に心のこもったお手紙でして」
なんてこと。「でも私、何も同意した覚えはありませんけど――」
「お手紙の内容が本当に切実でして。『ぼくのママはすごくがんばってはたらいてて、いつもつかれてる。パパもすごくがんばってはたらいてて、いつもイライラしてる。むかしはふたりでわらいあってたのに、いまはいつもかなしそうなかおばかりしてるんだ。ふたりがもういちどなかよくなれるようにたすけて』と書かれていました」
私はソファに崩れるように座り込んだ。胸がむかむかした。
「今度の土曜日、もしよろしければお二人でご出演いただけませんでしょうか。私どもの心理分析システムは、これまで多くのご夫婦の関係改善にお役に立ってまいりました。ご検討いただけますでしょうか?」
ご検討って? うちの6歳の息子の方が、両親の私たちよりもよっぽど大人だったということが分かっただけじゃない。子供がテレビ番組に助けを求めるほど、私たちの夫婦関係は修復不可能なまでに壊れてしまっているということなのだ。
「……まずは主人と相談してみないと」
「もちろんでございます。お時間をいただいて構いませんので、ゆっくりご相談ください。きっとご家族皆様にとって良いきっかけになると思います」
その夜、太郎が眠った後、私は自宅の書斎にいる健一を見つけた。彼はまだ仕事着のままで、ノートパソコンを睨んでいた。
「話があるの」
彼はまた喧嘩を売られるとでも思ったのか、身構えるように顔を上げた。「また母さんのことなら――」
「違うわ。太郎が、あるテレビ番組に私たちを申し込んだの。夫婦カウンセリングみたいなやつ」
