第2章

 私は丸二時間、スマホを睨みつけていた。画面は暗くなり、触れるとまた明るくなる。拓哉へのメッセージは「配信済み」の表示のまま動かない。返信はおろか、ふざけた絵文字の一つさえ返ってこないのだ。

 あの馴染みのある鈍い痛みが、また胸に這い上がってきた。まるで誰かが心臓をゆっくりと握り潰しているようだ。私は枕元の薬瓶を探り、ニトログリセリンの錠剤を取り出して舌の下に含んだ。苦味が口の中に広がり、ようやく心拍が落ち着き、手の震えが止まった。

「薄情な男」

 私はそう呟き、薄汚れたソファに携帯を放り投げた。

 ひび割れた鏡の前に立ち、クローゼットから最後の一着となった高級な黒のスーツを取り出す。私の最後の鎧であり、ずっと愛用してきた一着だ。

 鏡の中から見返してくる女は、まるで死人のようだった。頬はこけ、唇に血の気はなく、目は赤く充血している。幽霊みたいだ。

「上等じゃない」私は鏡の自分に言った。「幽霊の方が、借金の取り立てには向いているわ」

 口紅を塗る手が震え、胸がまたズキズキと痛み始めた。バッグを開け、薬がすぐに取り出せる位置にあるか確認する。

「おこぼれを待って死ぬより、あがいて死ぬほうがましだ」

 鏡に向かってそう言い放った。

 電話に出ないなら、こっちから会いに行くだけだ。拓哉のことだ、金曜の夜は高級クラブ『ベルベット』のVIP席にいるに決まっている。商談をまとめているか、親の七光りのボンボンたちに媚びを売っているかのどちらかだ。

 タクシーが高級クラブ『ベルベット』の前で停まった。

 相変わらずこの街で最も格式高い会員制クラブで、店の前には高級車がずらりと並んでいる。かつては常連だったが、今は……。

 中に入った瞬間、馴染み深い白檀の香りが鼻をついた。クリスタルのシャンデリアが全てを輝かせている。受付にいる月島は、かつて私専属のホステスだった女だ。以前なら私がどの席がいいか飛んできて聞いてきたものだが、今は顔を上げ、ペンをカタリと落として固まっていた。

「浅倉さん……どなたかにお会いですか?」

「拓哉よ。VIP席ね」遠回しな言い方は無用だ。

 月島は机の下で手を握り締め、声を潜めた。「黒木様から、今日の午後……きつく言われているんです。あなたを中に入れないようにと」

「あいつがそう言ったの?」

 私は眉を上げたが、議論に時間を費やすつもりはなかった。そのままVIP専用通路へ向かうと、警備員が二人、入り口を塞いでいた。私が近づくと彼らは前に出て、分厚い手のひらを突き出した。

「お客様、ここは個室エリアです。立ち入りはご遠慮ください」

 私は立ち止まり、彼らの目を真っ直ぐに見据えた。声は落ち着いていたが、鋭さを込める。

「本当に浅倉家の人間を止めるつもり? 父がここに来た時、あなたたちのオーナーは玄関で出迎えていたわよね。浅倉の名前がもう地に落ちたとでも思って、私を止めるわけ?」

 警備員たちは顔を見合わせ、明らかに動揺していた。この街における我が家の重みを覚えているくらいには、長く勤めているのだろう。破産したとはいえ、浅倉家を完全に敵に回せば後でどうなるか分からない。彼らが躊躇している隙に、私はその間をすり抜け、VIPルームのドアを押し開けた。

 濃厚な葉巻の煙にむせそうになる。革張りのセクションソファに男が五人座っており、ガラスのテーブルにはウイスキーのボトルと吸い殻が散乱していた。永井議員の姿をすぐに認めた。それに帝都銀行の上条さんも。二人とも以前は父のパーティーに早くから顔を出し、一晩中ゴマをすっていた連中だ。それが今では、まるで靴の裏についた汚れを見るような目で私を見ている。

 拓哉はソファの中央に陣取っていた。チャコールグレーのオーダースーツを着て、髪は完璧にセットされ、腕には私が贈った高級時計が光っている。私が飛び込むと、彼は葉巻を灰皿に落として立ち上がり、怒りで顔を歪めた。

「真希、気でも狂ったのか? お前の来る場所じゃない! 出て行け!」

 私はテーブルに歩み寄り、離婚届を叩きつけた。

「離婚の精算よ。私が受け取るべき金、一銭たりとも残さず払ってもらうわ」

 部屋は死んだように静まり返った。

 拓哉が一歩踏み出し、私の腕を掴もうとした。

「真希、話なら後で二人きりで聞く。騒ぎを起こすな。今は大事な商談中なんだ」

「二人きりで?」

 私は彼の腕を振り払った。皮肉が口をついて出る。

「何十通もメッセージを送って、何度電話したと思ってるの。無視するか、着信拒否したくせに。今更二人で話したいだって?」

 私は言葉を切り、部屋にいる連中の顔を見回してから、再び拓哉を睨みつけた。

「二年前、まさにこの部屋で、あなたは私を抱き寄せて言ったわよね。『俺のそばにいてくれるなら何でもやる』って。私がお金なんていらないと言ったら、あなたは笑ってこう言った。『それなら、服を一枚脱ぐたびに百万払ってやる。それが俺の愛の証明だ』ってね。あの会話、覚えてる? それとも無かったことにするつもり?」

 私はジャケットの襟に手をかけ、肩から滑らせ始めた。黒い布地が腕を伝って床に落ち、白いシルクのブラウスがあらわになる。胸の痛みが再び強まり、背筋に冷や汗が流れたが、私は止まらなかった。指はシャツの第一ボタンにかかっている。

 拓哉の顔色が土気色に変わった。彼は前のめりになり、私の手を止めようとする。

「やめろ! ふざけた真似はやめろ!」

「ふざけた真似?」

 私は彼の手をかわした。目は氷のように冷え切っている。

「今すぐ100万円振り込んで。さもないと続けるわよ。私にはもう失うものも、恥じるものもない。でも、あなたは? 昨日の新聞で見たわよ。週末に三浦家の令嬢との婚約を発表するんですってね。あなたの『気前のいい元妻への慰謝料』の話が広まったら、三浦家はどう思うかしら?」

 それは彼の急所を正確に突いた。拓哉はこの政略結婚に全てを賭けている。スキャンダルなど、あってはならないことだ。

 永井議員がついに痺れを切らし、葉巻を押し潰した。

「黒木、なんとかしろ。我々はビジネスの話をしているんだ。こんな茶番に付き合ってる暇はない」

 他の男たちも同意するように呟き、全員の視線が拓哉に集まった。

 拳が固く握りしめられ、関節が鳴る音が聞こえるほどだった。顔を朱色に染め上げた後、彼は乱暴にスマホを取り出し、憎々しげに言った。

「口座番号だ」

 私は震える指で番号を伝えた。胸の痛みは悪化していたが、勝利は目の前だった。

「送ったぞ」拓哉がスマホをしまう。「100万円だ。着いたか?」

 私のスマホが震えた。入金通知。

 100万円。

 口座残高が3万8470円から103万8470円に跳ね上がった。

「気前が良くて助かるわ、拓哉」

 私は屈んでジャケットを拾い上げ、羽織り直した。

「また次の機会を楽しみにしてるわ」

 ドアに向かう背中に、囁き声が聞こえた。

「完全にイカれてる……」

「浅倉家も終わりだな……」

「黒木、お前の元嫁、サイコパスじゃねえか……」

 私は振り返らなかった。ドアが閉まった瞬間、廊下で崩れ落ちそうになった。

 胸が押し潰されるようだったが、無理やり体を支えた。ここでは倒れられない。奴らの前では絶対に。

 高級クラブ『ベルベット』を出て、タクシーを拾った。

 後部座席に座り、スマホの画面を見つめる。103万8470円。500万にはまだ程遠いが、これはほんの始まりに過ぎない。

 私はシートに背を預け、目を閉じた。

 あの部屋で、拓哉の目に浮かんだものを見た。心配。隠そうとしていたが、彼はまだ私のことを気にかけている。

 だが、もうそんなことはどうでもいい。

 彼の愛を取り戻すためにやったわけじゃない。私は生き延びるためにやったのだ。

「まだ、始まったばかりよ」

 私は自分に言い聞かせるように呟いた。

「代償を払わせなきゃいけない人間は、まだ他にいる」

 タクシーは帝都のネオン街を走り抜けていく。私の復讐はまだ幕を開けたばかりだ。

 次の標的は――神田松也。

 私が一番必要としていた時に、煙のように消え失せた幼馴染の友人。

 彼にもツケを払ってもらう時が来た。

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