第3章

郁美視点

 あの日、私は家に帰らず、適当なホテルに入って眠りについた。

 翌朝、スマホの着信音で目を覚ます。

「黒木様、レストラン『レヘルナット』でございます。来週火曜日、十九時のご予約の確認でお電話いたしました。当日はお時間通りのご来店をお願いいたします」

 胸がぎゅっと締めつけられ、一瞬、言葉に詰まる。

「……ありがとうございます。伺います」

 通話を切り、手の中のスマホを見つめる。画面が徐々に暗転していく。

 あの予約。すっかり忘れていた。あのレストランの席を確保するために、私は毎週電話をかけ、何度もキャンセル待ちリストに名前を載せてもらったのだ。丸六ヶ月もかかった。悠介にも、あの店のことを何度も話したっけ。

「あそこに行けたらどんなに素敵だと思う?」

 私はいつもそう言っていた。

「夜景が息を呑むほど綺麗なんだって」

 彼はそのたびにただ頷くだけで、視線はノートパソコンの画面に釘付けだった。心ここにあらず、といった様子で。

 だから、私が自分で動くことにしたのだ。何度も電話をかけ続け、今日、ようやく空席が出たというわけだ。

 それは、朋子が帰ってくる前のことだった。

 まだ悠介の愛を信じ、私たちが祝福されるべき未来を持っていると思い込んでいた頃のこと。

 当日の夜には花火まで手配していた。予約が確定したら、レストランの支配人がすべて協力してくれると約束してくれていたのだ。悠介を驚かせたかった。そうすれば、彼も喜んでくれるかもしれないと思っていた。

 予約をキャンセルすべきだろうか?

 私は迷い、スマホを睨みつけたまま、どうすべきか決めかねていた。

 だが、この予約のタイミングはあまりにも絶妙だった。来週の火曜日。私がチューリッヒへ旅立つ直前だ。これはある意味、本当の別れにふさわしいのではないか? 最後の晩餐。少なくとも私は努力した、最初から最後までこの関係に真剣に向き合ったのだと、自分に言い聞かせることができる。彼がそうでなかったとしても。

 私はメッセージアプリを開き、入力した。

『来週の火曜日、夜は空いてる?』

 数秒後、彼から返信が来た。

『ああ。どうした?』

 喉の奥が引きつる。

『一緒に夕食を食べたいの』

 画面に三つの点が波打ち、やがて文字が表示された。

『了解』

 それだけ。たった一言、「了解」。

 「楽しみだね」とも、「どこに行くんだ?」とも言わない。ただ……了解。

 私はスマホを放り出し、こんな儀式めいたことをしようとしている自分が、どうしようもなく愚かに思えた。

 すると、すぐにまた電話が鳴った。悠介だ。

 私は応答ボタンを押す。

「もしもし?」

「よう、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 彼は悪びれもせず、何気ない口調で尋ねてきた。

「新しい家にさ、庭ってあったっけ?」

「ええ」

 無力感が私を襲う。

「小さいけれど、あるわ」

「そっか。朋子のためにバラを植えてやりたいんだ。あいつ、バラが好きだからさ」

 ……何? 私たちの家の庭に、彼女のためのバラを植えたいだって?

 瞬間、激しい怒りで頬が熱くなった。

「植えたいなら勝手にすればいいじゃない! でも、私はバラなんて大っ嫌い!」

 彼が何か言い返す前に、私は電話を切った。

 スマホを額に押し当てる。涙が滲み、視界が歪んだ。

 二ヶ月ほど前、彼をあの家に連れて行ったことがある。私は興奮して各部屋を案内し、私のすべての計画を彼に語って聞かせた。

 彼は無言で私の後ろをついてきた。当時、その沈黙を好意的に解釈していた。私がこういうことを得意だと知っているから、私の思うままに家を作り上げればいいと任せてくれているのだと信じていた。

 けれど今、ようやく分かった。真実は、彼がまったく話を聞いていなかっただけなのだ。私の一言一句たりとも耳に入っておらず、家がどうなろうと関心がなかった。彼は家をまともに見ようともしなかったし、私が二人のために築こうとしていたものなど、何一つ見ていなかったのだ。

 両手で顔を覆い、必死に感情を抑え込もうとしたが、結局、私は崩れ落ちた。

 不意に、膝の横でスマホが震えだした。

 手の甲で涙を拭い、スマホを手に取る。Instagramの通知だった。

 アプリを開くと、朋子からの投稿だった。彼女が帰国してすぐ、私は彼女をフォローした。彼女の写真に写る悠介の方が、私と一緒にいる時よりもずっと生き生きとして見えたからだ。

 投稿されていたのは動画だった。朋子と悠介が混雑したテーブルの中央に座り、周囲を私の見たこともない人々が囲んでいる。皆が笑い、酒で顔を赤らめていた。誰かが撮影しているらしく、画面がわずかに揺れている。

「キス! キス! キス!」

 彼らはテーブルを叩きながら囃し立てていた。

 朋子が悠介の方を向き、とろんとした目で、甘く無邪気な笑みを浮かべる。彼女がゆっくりと顔を近づけても、悠介は避けようとしない。

 私は即座にスマホを閉じ、ベッドに放り投げた。もう二度と見たくなかった。

 心臓が早鐘を打ち、痛いほどに脈打っている。私は手のひらを胸に押し当て、鼓動を鎮めようと、呼吸を整えようと必死になった。

 悠介は一度も、私の友人に会おうとしなかった。この三年間、一度たりとも。

 私が提案するたび、彼はいつも言い訳を用意していた。「会議がある」「疲れている」「また今度」。一年も経つと、私はもう誘わなくなり、彼が私の生活の一部に関わってくれることを期待するのもやめた。

 だというのに、今、彼は朋子の友人たちと一緒にいる。あんなふうに談笑し、酒を酌み交わしている。彼らが自分を彼女の方へ押しやるのを許し、キスを煽って歓声を上げるのを許容している。

 彼が私の友人に会いたがらなかったのは、私を愛していなかったからだ。

 その事実が氷のように骨の髄まで染みていく。誰かを愛していなければ、その友人のことなどどうでもいいのだ。その人の世界なんて無意味なのだ。過去のすべてが、欠陥だらけの夢のように思える。今振り返れば、当時の自分がどれほど滑稽だったか、ただただ思い知らされるばかりだ。

 私はベッドに座り込んだまま、虚ろな目で虚空を見つめていた。呼吸がようやく正常に戻るまで、かなりの時間を要した。

 やがて、私はスマホを拾い上げ、親友のえな子に電話をかけた。

 ワンコールで彼女が出た。

「郁美! やっほー、どうしたの――」

「結婚式、やめることにした」

 私の声は、ひどく冷静だった。

 電話の向こうで、時が止まったような沈黙が流れる。

 次いで、叫び声が響いた。

「はあ!?」

「新居の片付け、手伝ってくれないかな?」

 私は余計な説明を省いた。

「全部。何もかも処分しなきゃいけないから」

「郁美、一体何があったの? 結婚式って、あんた――」

「悠介、朋子と結婚するつもりみたい」

 口にするだけで、今でも胸が張り裂けそうになる。

「私には無理。着いたら詳しく話すから」

「何それ!? ふざけんじゃないわよ!」

 えな子の声が金切り声に変わる。

「あいつ、何様のつもり!? あんたの結婚式でしょ! 今すぐ行く! どんな理由があろうと許せない!」

 えな子は勢いよく電話を切った。全身に温かいものが広がるのを感じた。婚約者は私を愛していなかったけれど、私の友人はこんなにも頼もしい。

 二人で新居に到着すると、えな子は待ちきれない様子で、一体何が起きたのかと問い詰めてきた。

 私はすべてを話した。

「彼、言ってたわ。自分の会社が危なかった時、朋子が助けてくれたんだって。だから今度は、彼女の願いを叶えなきゃいけないんだって。彼女、もう長くないから。お嫁さんになりたいんだって。だから彼は、彼女にすべてを捧げるつもりなの」

「信じられない! 郁美だって彼を助けたじゃない! あの投資家の人に頭を下げに行ったの、あんたじゃない!」

 喉がぎゅっと詰まり、私は言葉を失った。

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