第4章

翌朝、会社から呼び出しがかかった。緒方智也のスキャンダル対応のためだ。

だが会社に着くや否や、あろうことか小笠原玲奈と鉢合わせしてしまった。

おそらく緒方智也が、彼女を一人にしておくのを惜しんで連れてきたのだろう。

私の姿を認めると、彼女はすぐに申し訳なさそうな笑みを浮かべた。

「沙耶さん、昨夜はごめんなさい。あたし、飲み過ぎてインスタに変な投稿しちゃって……智也もそれに乗っかって、迷惑かけちゃったわね」

「彼ならもう叱っておいたわ。あの人ったら、あたしを庇うことしか頭になくて、沙耶さんの気持ちなんて全然考えてないんだから。本当に朴念仁なんだから」

「ネットの人たちって、本当に口が悪いわよね。沙耶さんが、あたしの身代わりだなんて。まったく、馬鹿げてるわ」

「何もわかってないのよ。あたしがどれだけ感謝してるか……この数年、あたしの代わりに智也の面倒を見てくれて……」

その笑顔は、どこまでも甘く、無邪気だった。

私も微笑み返す。

「私は緒方智也の妻です。夫の世話をするのは当然の務めですから、部外者の方にお礼を言われる筋合いはありません」

「それよりあなたこそ、昨夜は『浮気相手』だなんて罵られていましたけど、気になさらないでくださいね」

小笠原玲奈の顔色がさっと変わる。

彼女は私を値踏みするように上から下まで眺めると、不意に私の左手の薬指に視線を固定した。

そして、にっこりと笑う。

「ねえ沙耶さん。あなたが着けてるそれ、あたしの結婚指輪よね? そろそろ返してくれない?」

言いながら手を伸ばし、強引に奪おうとしてくる。私は鬱陶しくなって腕を振り払った。その拍子に、手が彼女の顔に当たってしまった。

小笠原玲奈は突然、持っていたバッグを振り上げ、私に叩きつけた。バッグの金属製のバックルが額を掠め、鮮血がしたたり落ちる。

かなりの力だった。衝撃で耳の奥がキーンと鳴る。

やり返そうと手を上げた瞬間、背後から手首を強く掴まれた。

いつの間にか現れた緒方智也が、冷ややかな声で警告する。

「相原沙耶、あいつに指一本でも触れてみろ」

振り返った私を見て、彼は額の血に気づき、一瞬だけ動きを止めた。だがすぐに眉を寄せ、小笠原玲奈に視線を向ける。

「お前がやったのか?」

小笠原玲奈は涙目で首を横に振る。

「違うの智也! この人があたしを浮気相手だって罵って、殴ろうとしてきたの。避けようとしたら、バッグが偶然当たっちゃって……わざとじゃないの、今すぐ謝るから!」

彼女が泣き出した途端、緒方智也の態度は軟化した。

言い分を聞き終えると、緒方智也は彼女の髪をくしゃりと撫で、あろうことか褒め称えた。

「よくやった」

「今後、誰かにお前が殴られそうになったら、迷わずやり返せ。俺がいる限り、誰にも謝る必要なんてない」

私はふと、小笠原玲奈が少し羨ましくなった。

実は私だって、本当は泣き虫なのだ。ただ、私の涙を見て心を痛めてくれる人は、もうこの世にはいない。

見かねたマネージャーの荻野さんが、私を指差して緒方智也に怒鳴りつけた。

「あんたの奥さんはこっちでしょ! 緒方智也、あんた目は節穴なの!? そんな猫かぶりの女を大事に抱え込んで!」

「沙耶ちゃんのどこが、小笠原玲奈に劣ってるっていうのよ!?」

「沙耶ちゃんと子供を作りたいって言ったのは誰!? 彼女と一緒の時だけが、本当の家にいるみたいに落ち着くって言ったのは、あんたじゃないの!?」

「今こんなに彼女を傷つけて……後で絶対に後悔しないって言いきれるの!?」

私は無意識のうちに、下腹部に手を添えていた。

そこには、芽吹いたばかりの小さな命が宿っている。

緒方智也は鼻で笑った。その視線が軽んじるように私を通り過ぎ、感情の欠落した声が響く。

「確かに俺は、相原沙耶を好きだったのかもしれない。だがな、玲奈が戻ってきたんだ」

「相原沙耶だろうが、田中沙耶だろうが、山本沙耶だろうが……そんな有象無象は、全部すっこんでろって話だ」

そうか。緒方智也が私に向けた好意なんて、それほどまでに短く、浅はかな一瞬の出来事に過ぎなかったのだ。

今、小笠原玲奈が帰ってきた。だから彼は、彼女を愛しに行くのだ。

私は薬指から、もともと私のものではなかったその指輪を抜き取り、緒方智也に差し出した。

緒方智也の顔から、ゆっくりと笑みが消えていく。

僅かな沈黙の後、彼は手を伸ばしてそれを受け取った。

荻野さんが慌てて私を引き留める。私の腹部に視線を走らせ、必死に目配せをしてきた。

「沙耶ちゃん、早まらないで。あなたはもう……」

その言葉を遮るように、小笠原玲奈が横から指輪をひったくった。

彼女は自分の指に指輪をはめようとしたが、サイズが少し小さいことに気づく。

彼女の笑顔がピクリと引きつった。次の瞬間、彼女は腕を振り上げ、指輪をゴミ箱へと放り込んだ。

そして緒方智也の腕に絡みつき、甘えた声を出す。

「やっぱりいいわ。あたしのために怒らないで、智也。他の女が着けてた指輪なんて汚らわしいし、もういらない」

緒方智也は彼女に取り合わず、ただ私をじっと見据え、低い声で問いかけた。

「お前が、もう『どうした』って言うんだ?」

私は淡々とした眼差しを一瞥だけ彼に投げかけ、踵を返してその場を後にした。

私は妊娠している。

だが、緒方智也がそれを知る必要はない。

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