紹介
十年前、傲慢な御曹司・高峯 恭平 (たかみね きょうへい) のくだらない賭けのせいで、私の魂は悪霊に乗っ取られ、身体の自由を完全に奪われた。
それから十年。私は意識の奥底で、「自分」が恭平の完璧な恋人を演じ続けるのを見ていることしかできなかった。従順で、物分りが良く、決して逆らわない操り人形として。
本当の私は、身体という檻の奥深くで、声にならない叫びを上げ続けるだけ。
そんな私を覚えているのは、幼馴染の相田 颯馬 (あいだ そうま) だけだった。彼はどんな代償を払ってでも私を救い出す方法を探し続け、決して諦めなかった……。
そして、天音阁でのあの夜。ついに、私は身体の主導権を取り戻した。
恭平が片膝をつき、何千万もするダイヤモンドの指輪を手にプロポーズしてきたその瞬間、私は十年もの間、ずっとやりたかったことを実行した——
全世界が見守る前で、その指輪を叩き割ったのだ。
「ゲームは終わりよ、このクズ!」
チャプター 1
百合子視点
天音閣は目映い光に満ち、むせ返るような高級香水の香りが立ち込めていた。私はステージの中央に立ち、スポットライトを浴びたヴァイオリンが妖しい輝きを放っている。二千八百の客席は、熱気を帯びた視線で埋め尽くされていた。
弦の上を指が踊り、旋律が液体水銀のように流れ出す。けれど、この音を奏でているのが本当の私ではないことだけは、はっきりと分かっていた。
本当の私は、この身体の奥深く……意識という名の暗い地下室に閉じ込められている。小さな窓から、ぼんやりと外の世界を覗き見ることしか許されない囚人。十年。この十年もの間、私は己の肉体という牢獄に繋がれていたのだ。
二百年前に死んだオーストリアの女、イリス。そいつが私の身体を乗っ取り、己の夢を叶えている。私を世界的なヴァイオリニストに仕立て上げ、そして、客席にいるあの男と『恋に落ちさせた』。
ああ、忌々しい。この熱狂する観客たちが真実を知ったら、一体どんな顔をするだろう。
最後の一音がホールに溶けて消えると、嵐のような拍手が巻き起こった。
最前列から、高峰恭平が立ち上がる。完璧に仕立てられた黒のタキシードに身を包み、寸分の乱れもなく撫でつけられた髪。その手には、十億円は下らないというピンクダイヤモンドの指輪を収めた、ベルベットの小箱が握られていた。
彼はステージの縁まで歩み寄ると、恭しく片膝をついた。
「百合子、僕の女神!」
マイクを通した声が、ホール全体に朗々と響き渡る。
「この十年、君は僕の全てだった。どうか、僕と結婚してください!」
観客が息を飲む。無数のカメラのシャッター音が、まるで機関銃の掃射のように鳴り響いた。
けれど、私の内側では激しい吐き気が込み上げていた。本気で、その場にすべてをぶちまけてしまいそうだった。
笑わせるな。この男が、十年も私を愛していただと? 十年前、あいつは私をただの賭けの駒としか見ていなかった。山奥から出てきた貧しい娘。永都芸術学院に通っていた、金持ちの坊ちゃんたちの格好の玩具だったのだ。
自分の唇が、優美な弧を描くのを感じる。またイリスが、私の表情を操っている!
『やめて! こいつのプロポーズを受けるな! あんたを愛してるわけがない!』
私は意識の檻の中で絶叫した。脳内に、イリスの嘲るような声が響く。
『黙りなさい、小娘。恭平は完璧な夫よ。富と権力を持ち、そして何より――この私に心酔している』
『あいつが惚れているのは、この身体だけだ! あんたじゃない、この亡霊が!』
必死にもがくが、イリスの支配は鉄のように固い。
『同じことよ。この身体は、もう私のものなのだから』
自分の手が、ゆっくりとダイヤモンドの指輪へと伸びていくのが見えた。駄目だ、やめろ! 颯馬を裏切るような真似はさせない!
「恭平さん、私……」
イリスが「はい、喜んで」と答えようとしている。
『やめろ! この亡霊が! 私の身体から出ていけ! 私には、愛する人がいるんだ!』
私は精神の牢獄に、ありったけの力で体当たりした。
『あの颯馬とかいう男のこと?』イリスが甲高い声で笑う。『哀れなものね。十年も経てば、とうにあなたのことなど忘れているわ。もしかしたら、もうこの世にいないかもしれない』
『違う!』
ナイフで抉られるような痛みが、心臓を貫いた。
『颯馬が私を忘れるはずがない! 彼は、きっと待っていてくれる!』
絶望が私を飲み込もうとした、まさにその時だった。どこからか、温かく、そして力強い不思議な力が、私の意識の底へと流れ込んできたのは。
その力は優しく、だが抗いがたく私の精神に広がり、かつてない勇気を奮い立たせてくれた。
『な……ありえない……』
初めて、イリスの声に焦りの色が混じった。
『誰が私の支配に干渉しているの?』
誰かは分からない。けれど、これが最後の好機であることだけは確信できた。
私は歯を食いしばり、この謎の力を借りてイリスの精神支配に激しくぶつかった。十年分の怒りと、痛みと、絶望の全てをぶつけるように――!
『お前は私の人生をめちゃくちゃにした!』私は魂で咆哮した。『私の身体を奪い、愛する人を裏切る様を、ただ指をくわえて見ていることしかできなかった!』
イリスの精神を縛る鎖が震え、微かな亀裂が入る。
『いやあああ!』イリスが狂ったように叫ぶ。『この完璧な肉体を手に入れるために十年を費やしたのよ! 私は女王として生きる資格がある!』
『何一つ、あんたのものじゃない!』
謎の力が、無限に力を与えてくれる。私は攻撃の手を緩めなかった。
『これは私の身体! 私の人生よ!』
パキン、と。乾いた音が響いた気がした。
ついに、精神を縛り付けていた枷が砕け散ったのだ。
瞬間、身体の主導権が雪崩のように戻ってきた。縛られていた感覚が嘘のように消え失せ、指先から足の先まで、肌の隅々までの感覚が蘇る。十年ぶりに、私の意識は完全に澄み切っていた。
ひとつ瞬きをする。世界が、信じられないほど鮮やかに目に映った。色彩はより濃く、音はより澄んで聞こえる。
私は眼下で跪く恭平を見下ろした。その期待と得意げな光に満ちた顔に、胃の腑が煮えくり返る。
恭平はまだ、あの吐き気を催すような笑みを顔に貼り付けたまま、私の答えを待っている。観客は固唾を飲み、世界中のカメラが私たちに焦点を合わせていた。
私は手を伸ばした。恭平の眉がぴくりと跳ね、勝利を確信したように口元が耳まで裂けんばかりに歪む。
私は、差し出されたダイヤモンドの指輪を、ゆっくりと受け取った。
ホール全体が、墓場のように静まり返った。
そして、その十億円の『愛の証』を頭上高く掲げると、満場の観客が固唾を飲んで見守る中――大理石の床へと、力任せに叩きつけた。
ガシャァァン!
甲高い衝撃音が、水を打ったような静寂を引き裂いた。指輪が跳ね、巨大なダイヤモンドが歪んだ台座から外れて私の足元に転がる。私はハイヒールの踵で、歪んだプラチナのリングを執拗に踏みつけた。それが原型を留めないほど、ぐにゃりと捻じ曲がるまで。
死のような沈黙が、ホールを支配した。
「な、なんだ……百合子……」
恭平が、口をあんぐりと開けて呆然と呟く。
「黙れ!」私は彼の鼻先を指差して叫んだ。「十年前に永都芸術学院でした賭けを覚えている? 一週間で田舎娘をモノにする――賭け金は、あんたのクソみたいなマセラティだったわよね!」
ホールは静まり返り、自分の心臓が狂ったように高鳴る音だけが聞こえた。
「百合子、ダーリン、何を言って……」
恭平が狼狽しながら近づこうとする。
「気安く呼ばないで!」私は一歩後ずさった。「それから、高峰百合子と呼ぶな! 私は菊池百合子――あんたたちが面白半分で弄んだ、あの惨めな田舎娘よ!」
そして私は、この十年、ずっとやりたかったことを実行した。
バシンッ!
乾いた音がホールに響き渡り、恭平の身体がぐらりとよろめいた。彼の左頬はみるみるうちに腫れ上がり、真っ赤な手形がくっきりと浮かび上がっている。彼は己の頬を押さえ、衝撃に言葉を失っていた。
「ゲームは終わりよ、クズが」
脳裏で、イリスが断末魔の叫びを上げた。
『いやあああ! この女――』
そして、その声はぷつりと消えた。永遠に。
私は、自由になった。
ホールは、一瞬にして混沌の渦に叩き込まれた。報道陣が狂ったようにカメラを向け、観客は席から立ち上がり、スタッフがステージへと駆け寄ってくる。
逃げなければ。
「彼女を捕まえろ! 気でも狂ったんだ!」恭平が腫れた頬を押さえながら怒鳴った。「警備員! 何をしている、逃がすな!」
私は走り出した。ハイヒールがステージをけたたましく打ち鳴らし、心臓が喉から飛び出しそうだ。
三人の警備員がステージの左手から回り込み、私を取り囲もうとする。構わない。その中で一番線の細い男を目がけて、真っ直ぐに突進する。彼が私を掴もうと腕を伸ばした瞬間、私は渾身の力でその身体を突き飛ばした。男が体勢を崩した一瞬の隙を突き、その脇をすり抜ける。
ステージを飛び降り、楽屋裏へと駆ける。この忌々しいドレス! 動きを妨げるハイヒールを脱ぎ捨て、手に持って裸足のまま走り続ける。冷たい床が足の裏を刺したが、気にしてはいられなかった。
廊下の先で、大柄な警備員が仁王立ちになり、両腕を広げて私の行く手を阻んだ。私が怯んで足を止めるとでも思ったのだろう。その油断を突き、一気に加速して右へとフェイントをかける。彼の重心がずれた瞬間、逆の左へと切り返し、壁際をすり抜けた。
前方から、さらに増援が駆けつけてくる。とっさに近くの楽屋のドアを押し開けて中に飛び込み、間髪入れずに鍵をかけた。
ドアが外から激しく叩かれ、ノブがガチャガチャと音を立てる。部屋を見回し、窓を見つけた。三階……。かなりの高さだ。けれど、あの男に捕まるよりは、万倍マシだ。
化粧台に置いてあった仕事用のジャケットを掴み、派手すぎるイブニングドレスの上に羽織る。
化粧台によじ登り、窓をこじ開けた。十一月の永都の夜風が、刃物のように頬を切り裂いていく。眼下は、ゴミ箱や段ボールが散乱する薄暗い路地裏だった。
背後でドアを蹴り破る轟音が響き、蝶番が軋む音が聞こえる。もう、長くはもたない。
「くそっ……」
ごくりと唾を飲み込む。口の中に、恐怖の苦い味が広がった。
バンッ! 凄まじい音と共にドアが破られ、三人の警備員が雪崩れ込んできた。
「窓だ! 飛び降りさせるな!」
だが、一足遅い。私はすでに窓枠の上に立っていた。
「ごめん、颯馬。もし死んだら、今度こそ会いに行くから」
心の中で最愛の人の名を呟き、そして私は、夜の闇へと身を躍らせた。
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