第3章
友里子の視点
牧人が頷いた。
「本当なの?」
「うん、本当だよ母さん。学校のプロジェクトなんだ。先生が、将来大学を受ける時の役に立つって言ってた」
喉が張り付くように乾いて、痛い。
「まだ十歳じゃない」私は声を絞り出した。
「大学受験なんて……」
「経歴のためだよ」と牧人は言った。
「今はみんな、早いうちから実績を作ってるんだ」
元木が横でしきりに頷く。
「牧人の言う通りだ、友里子。今の競争社会は過酷なんだよ」
牧人はまだ十歳だというのに、顔色一つ変えずに嘘をついている。罪悪感のかけらもない。その姿は父親と瓜二つだった。まるで判で押したようだ。
心の中にはただ果てしない虚無が広がり、中身をすべて抉り取られたかのようだった。夫と息子、二人に同時に裏切られたのだ。
十月十日、お腹を痛めて産んだ我が子が、あろうことか父親とその愛人の隠れ蓑になっている。母親である私の気持ちなど、これっぽっちも気にかけていない。
夫の裏切りももちろん辛い。けれど、息子のこの仕打ちは、それよりも遥かに深く私を傷つけた。
「行かせない」と私は言った。
元木の顔色が変わった。
「友里子」
「あの子はまだ子供よ」私は続けた。
「三ヶ月なんて長すぎる。私は――」
「何でもかんでも管理しようとするな」元木の声に苛立ちが滲む。
「これは牧人の将来に関わることなんだぞ」
「管理なんてしてない――」
「してるよ!」牧人が私の言葉を遮った。
「いつもそうじゃないか。僕がやりたいことは全部反対するくせに」
「そんなことないわ」
「そんなことある!」牧人の顔がまた赤くなった。
「友達の家に遊びに行くことさえ許してくれないじゃないか。いつだって僕がどこにいるか、何を食べてるか、誰といるか、いつ帰るかを知りたがる。息が詰まりそうなんだよ!」
元木は彼を止めようとしなかった。
「牧人」私は説明しようとした。食事にうるさく言うのは、彼のアレルギーが重いからだということを。
「私が厳しくするのは、あなたのアレルギーが酷いからで……」
「とにかく、僕は今回の旅行に行きたいんだ」牧人は再び私の言葉を遮る。
「父さんと一緒に行きたい。母さんとここに残るなんて御免だ」
胸の奥に激痛が走り、誰かが直接手を突っ込んで心臓を握り潰しているような錯覚に陥った。
「だめ……」声が震える。
「行かせない」
元木が立ち上がった。
「友里子――」
「あなたたちが何をしようとしてるか、わかってるわ」私は元木を見据えた。
「本当の目的もね」
彼が一瞬、狼狽の表情を浮かべた。ほんの刹那のことだ。
「何を馬鹿なことを言ってるんだ?」
「牧人をどこかに連れていく気なんて最初からないでしょう」私は拳を握りしめた。
「あなたが連れて行くのは、夏希よ」
元木の顎の筋肉が強張った。
「馬鹿げてる」と元木は吐き捨てた。
「馬鹿げてる、ですって?」私も立ち上がった。
「私が知らないとでも思った? 元木、今夜バーでの話を全部聞いたのよ。あなたが友達に話していたこと、全部ね」
彼の顔からさっと血の気が引いた。
「夏希を連れて田舎で三ヶ月過ごすつもりなんでしょう」私は言った。
「治療という美名のもとにね。それを親子プロジェクトだなんて偽って、牧人を隠れ蓑にする気だったくせに」
「母さん――」
「あなたもよ」私は牧人に向き直った。
「父親の片棒を担いで嘘をつくなんて。私を騙して」
牧人の顔が赤く染まった。羞恥からではない、怒りからだ。
「それがどうしたのさ!」彼は叫んだ。
「少なくとも父さんは僕を子供扱いしない。友達の前で僕に恥をかかせるようなこともしない!」
私はたじろぎ、一歩後ずさる。
「今の自分を鏡で見てみろ」元木の声は氷のように冷たかった。
「ヒステリーを起こして、妄言を吐き散らして……」
「妄言?」私は笑った。その笑い声はひび割れ、酷く寒々しいものだった。
「夏希の病気なんて嘘っぱちじゃない、元木。彼女、うちに来ては露出の多い服を着て、あなたにベタベタ触って。あんなに近い距離に座り込んで……あなたが帰ってきた時、服から彼女の香水の匂いがしたことだってあるのよ」
「彼女は私の患者だぞ――」
「患者なわけないでしょう!」私は金切り声を上げた。
「彼女のスマホのメッセージを見たのよ」
「あなたのために昇進も断った」声が嗄れる。
「牧人の世話をするために、キャリアだって捨てたのよ。元木、私のお腹にはあなたの子がいるの。それなのに、私を置いて三ヶ月も他の女と逃げるつもりなの?」
元木が私の腕を掴もうと手を伸ばす。
「落ち着け」
私はそれを激しく振り払った。
その時、牧人が動いた。
怒りに任せて私の方へ突進してくる。その顔は憎悪で歪んでいた。
「全部母さんのせいだ! 母さんが全部ぶち壊したんだ!」
彼の頭が、私の腹部に激しく激突した。
世界が、一瞬にして真っ白になった。
息ができない。思考が止まる。ただ耐え難い激痛だけが全身を駆け巡った。鋭く、恐ろしい痛みが。
