第2章
絵里視点
悟のバイクが夜の街路に轟音を響かせる。私は彼の腰にしっかりと抱きつき、ずっと恋しかったこの安心感を噛みしめていた。街の灯りが次々と流れていくけれど、私の想いはただ、抱きしめているこの人だけに向いていた。
今度こそ、もう二度と彼を失ったりしない。
「着いたぞ」悟は古びた建物の前でバイクを止めた。
外から見れば、割れた窓に剥がれかけた壁、何の変哲もない、まるで廃倉庫のようだ。でもここが、悟の秘密の王国なのだと私は知っている。
彼について中へ入ると、一階はバイクガレージになっていて、作業台のそばに数台の重厚なバイクが静かに停められていた。モーターオイルと金属の匂いが鼻につき、子供の頃、悟が初めて私をここに連れてきてくれた時のことを思い出す。
「本番は地下だよ」悟が隠しスイッチを押すと、床に入り口が現れた。
地下へと下りた瞬間、胸が締め付けられるような思いがした。
薄暗く、温かみのある照明。壁に整然と並べられた工具。隅には見慣れた小さなソファ。その上には、私のジャケットがまだ掛けられたままになっている。机の上には私たちのツーショットの写真が置かれ、その額縁は塵一つなく磨かれていた。私のお気に入りのブランケットまで、ソファの上にきちんと畳まれている。
まるで、悟がここを私のための家にしつらえてくれたみたいだ。
「この場所、昔と変わらず温かいね」私はブランケットにそっと触れながら、目を潤ませた。前の人生の私はなんて馬鹿だったんだろう。こんな優しさを束縛だなんて思っていたなんて。
悟は悪戯がばれた子供みたいに、もじもじと手をこすり合わせている。「本当にここ、嫌じゃないのか? 和也のところはもっと豪華だろうし……」
「和也なんて消えてしまえばいいのに」私は彼に向き直った。「私にとって一番大事なのは、あなたなの、悟」
悟の瞳に一瞬希望が灯ったが、すぐにまた翳ってしまった。
「絵里、最近何かあったのか?」悟は心配と戸惑いに満ちた目で、私の表情を注意深く窺う。「なんだか……様子が違う。今日の昼過ぎから、ずっと変だぞ」
しまった、あからさますぎたか。彼が納得できるような説明をしなくては。
「ただ、本当に大切なものが何なのか、わかっただけ」私は彼の手を取り、手のひらの硬いタコに触れる。「和也はずっと私たちを操っていたのよ。あいつの本性がやっと見えたの。私、もう彼と別れる」
悟の体がびくりと震え、目が見開かれる。「絵里……今、なんて言った?」
「和也と別れるって言ったの」彼の瞳に希望が徐々に満ちていくのを見つめながら、私は繰り返した。「あいつの支配にはもううんざり。私たちを引き離そうとすることにも。私はただ、あなたのところに戻りたいだけ」
悟の呼吸が速くなるが、その目にはまだ信じられないという色が浮かんでいる。「本気か? 明日になって後悔しないか?」
「これほど確信したことはないわ」
彼は不意に顔を背け、感情を抑えようとしている。わずかに口角が上がるのが見えた。その控えめで、おそるおそるといった様子の喜びに、胸が締め付けられる。
「何か食べるもの、持ってくる」彼の声は少し掠れていた。「腹、減ってるだろ」
こぢんまりとした簡素なキッチンで彼が忙しなく動き回り、小さな冷蔵庫からなけなしの食材を取り出すのを、私は見ていた。その手つきはぎこちなく、普段料理をしないことは明らかだ。いつもはバイクしかいじらないこの人が、私のために料理を覚えようとしている。前の人生で彼がしてくれたことすべてを思い出し、また目が潤んできた。
その時、私のスマホが鳴った。
画面に光る『五条和也』の名前に、瞬時に血の気が引いた。焼き殺された時の苦しみを思い出し、胃がひっくり返りそうになる。でも、出なけれ―彼に怪しまれるわけにはいかない。
私はキッチンでまだ忙しくしている悟に気づかれないよう、そっと視線を送った。彼は私に気づいていない。つま先立ちで部屋の隅まで移動し、小声で電話に出た。
「もしもし」
「絵里、どうして午後からずっとメッセージを返してくれないんだ?」和也の声は相変わらず「優しい」が、今の私には吐き気を催させるだけだった。「何通も送ったんだぞ。心配したじゃないか」
「ごめんなさい、図書館で勉強してて、スマホをマナーモードにしてたの」私は声を平静に保とうと努めた。
「そうか、勉強熱心なところも大好きだよ」和也はくすくす笑った。「ところで、週末の旅行のこと、楽しみにしてるかい? 湖畔で一番いいリゾートを予約したんだ。二人きりでね」
私の手が震え始めた。前の人生で、この「旅行」こそ、和也が私を人里離れた場所に連れて行き、生きたまま焼き殺した時だった。
「私……」
「まさかまだ迷ってるなんて言わないよな」和也の口調に、わずかな苛立ちが混じる。「俺たちはもう長い付き合いだろ。俺を信じることを覚えるべきだ」
信じろですって? 八つ裂きにしてやりたいくらいなのに! でも、今は話を合わせるしかない。
「うん、楽しみにしてる」私は歯を食いしばって言った。
「最高だ! 土曜の朝十時に迎えに行く。水着、忘れるなよ。湖で泳げるからな」和也の声は得意げだった。
「わかった。じゃあ、またね」
電話を切ると、私は深く息を吐いた。そして振り返った瞬間、完全に凍りついた。
悟がキッチンの戸口に、雷雲のように暗い顔で立っていたのだ。
全部、聞かれていた。
「また俺に嘘をつくのか、絵里!」彼の瞳は苦痛に満ち、声は震えていた。「あいつと別れる気なんて、最初からなかったんだな! 別れると言った舌の根も乾かないうちに、今度はあいつと旅行に行く約束か?」
「説明させて。あなたが思っているようなことじゃ.......」
「何を説明するんだ?」彼は苦々しく笑った。「またただの友達だとか言うのか? それとも考える時間が必要だと? 絵里、お前はいつもそうだ!」
「聞いて! 私には私の計画があるの!」私は説明しようとしたが、悟はもう聞く耳を持たなかった。
「計画? 何の計画だ?」悟の声が大きくなる。「あいつとロマンチックな旅行を楽しむ計画か? 絵里、お前は絶対に俺を選ばない。絶対に!」
「そんなことない! 本当に彼と別れたいと思ってる。でも……」
「駄目だ!」悟は私の言葉を鋭く遮り、その目は荒々しくなった。「もう誰にもお前を傷つけさせない。お前自身にもだ! お前は和也がどれだけ危険な男か分かってない。全く分かってないんだ!」
悟は大股で壁の制御盤へ向かうと、長い指で素早くボタンを操作した。機械的な音が部屋に響き渡り、やがて全ての扉が重いロック音を立てて自動的に閉まった。
「悟、何してるの?」私はドアに駆け寄り、それを叩いた。「開けて!」
「もう二度とお前を俺から離したりしない」悟は部屋の中央に立ち、その瞳は苦痛と決意の両方を宿していた。「これは、お前を守るためだ」
「悟、そんなことしないで!」私はドアを叩き続けた。
「お前が本当に誰がお前を愛しているか理解するまで、ここから出すつもりはない」彼は自分に言い聞かせるように呟いた。「和也はお前を傷つける。そんなこと、させられない」
私はドアに背を預けたまま、力なくずるずると座り込んだ。悟は遠くから私を見つめ、その胸は激しく上下している。部屋の照明が彼の顔に影を落とし、苦悩と危険の両方の表情を浮かび上がらせていた。
「悟……」私は彼の名をそっと呼んだ。
「今、俺を憎んでいることは分かっている」彼の声は静かで、深い疲労に満ちていた。「だが、あのろくでなしのところへお前が歩いていくのを見るくらいなら、憎まれた方がましだ」
そう言うと、悟は背を向け、私一人を残して部屋を出て行った。







