第2章

由紀菜の視点

 ドレスショップを後にしたとき、私はもうすべての現実を見極めたつもりでいた。

 けれど家に帰り、スマホを開いた瞬間、その思い込みは打ち砕かれた。

 SNSに亮介が投稿した一枚の写真。

 彼は優しげな表情でエコー写真を手にしている。そして、そこに添えられた手――私たちの婚約指輪をつけたその手が、あまりにも眩しく、私の目を刺した。

 キャプションには、こう記されていた。

『私たちの大切な宝物を、守っていく』

 私はソファに崩れ落ち、画面の中のその写真をただ呆然と見つめた。

 これは本来、私たちが話し合って決めた計画だったはずだ。

 夏希の妊娠が安定期に入ったら、亮介が適当な時期を見計らってSNSで私たちの「吉報」として報告する。そして結婚式が終わった後、私は海外での長期休暇という名目で数ヶ月間日本を離れ、夏希の出産を待つ。対外的には、子供は私が海外で産んだ私たちの愛の結晶だということにする――。

 完璧な計画。綻びのない嘘。

 ただ誤算だったのは、この写真を見たとき、胸がこれほどまでに痛むとは思わなかったことだ。

 投稿の下には数十件のコメントが並び、友人たちからの祝福で溢れていた。

『亮介、おめでとう!』

『由紀菜は幸せ者だね、こんなに優しい旦那様がいて』

 私は乾いた笑いを漏らす。もし彼らが真実を知ったら、それでも同じことが言えるだろうか。

 さらに画面をスクロールすると、亮介が食事に関する投稿もしていることに気づいた。

『彼女へのリマインド:妊娠中は刺身、ナチュラルチーズ、カフェインの過剰摂取はNG。葉酸とカルシウムのサプリを買うこと』

 その投稿を目にした瞬間、胸をハンマーで殴られたような衝撃が走った。

 亮介は、夏希が食べてはいけないものを覚えている。彼女に必要な栄養素を把握している。彼女の検診の日程さえ、すべて記憶している。

 なのに、私はどうだった?

 前回、私が高熱で寝込んだとき、彼は深夜まで会社で残業をしていたではないか。

「あなたもそんなふうに、気遣うことができたのね」

 私はスマホの画面に向かって、静かに呟いた。

「……ただ、その相手が私じゃなかっただけで」

 SNSを閉じると、未読メールが届いていることに気づいた。

 差出人はDr.ウィリアムズ。ロンドン王立病院のチーフアーキテクトだ。

 二ヶ月前、彼らが新設する小児病院のプロジェクトへの参加依頼が来ていた。デザインチームに加わってほしいというオファーだった。

 当時の私はそれを断った。亮介との結婚式を控えていたし、彼と離れたくなかったからだ。

 今となっては、なんと皮肉な話だろう。

 私は改めてメールを開いた。

『Dear 由紀菜

 以前、個人的な事情でオファーをお受けできないとのお返事をいただきましたが、このプロジェクトにとって貴女は不可欠な存在です。もしお気持ちが変わるようでしたら、このポストはまだ貴女のために空けてあります。

 プロジェクトは三年間を予定しており、報酬も十分に用意させていただきます。何より、貴女のキャリアにとって大きな飛躍となることでしょう。

 良いお返事をお待ちしております。

Dr.ジェームズ・ウィリアムズ』

 三年。ここのすべてを忘れ、人生をやり直すには十分な時間だ。

 壁のカレンダーに目をやる。私と亮介が予定していた結婚式まで、あと二週間――六月十五日。

 滑稽なものだ。私はかつて、その日付に赤ペンで大きなハートマークを描き、「名木田」夫人になるその日を心待ちにしていたというのに。

 けれど今、あの日付は私の新しい人生の始まりを告げる日へと変わろうとしている。

 私は返信を打ち始めた。

『Dear Dr.ウィリアムズ

 忍耐強くお待ちいただき、感謝いたします。そのオファー、光栄にお受けいたします。

 六月十五日までにはロンドンへ到着し、業務を開始することが可能です。

 チームの皆様と働けることを楽しみにしております。

文室由紀菜』

 送信ボタンを押した瞬間、かつてないほどの解放感が私を包んだ。

 その時、スマホの着信音が鳴った。親友の詩穂からだ。

「由紀菜! さっき亮介くんの投稿見たよ! 妊娠の発表、いつするつもりなの?」

 受話器の向こうで彼女は興奮気味にまくし立てる。

「もう、ついにママになるのね!」

 私は数秒間、沈黙した。詩穂はまだ代理母のことも、私がついさっき知った真実も知らない。

「詩穂、会って話したいことがあるの」

「もちろん! 私も話したいことがあったのよ。いつものカフェでいい?」

「ええ。三十分後に」

   ***

 カフェに着くと、詩穂はすでに席に着いて興奮を隠せない様子だった。テーブルの上には結婚式の企画資料が山積みにされている。

「由紀菜、サプライズをたくさん用意したの! 見て、このブーケのデザインとか、あとケーキも……」

 彼女は嬉々として資料をめくっていたが、ふと私の表情に気づいて手を止めた。

「どうしたの? なんだか浮かない顔して」

 私は深く息を吸い込んだ。

「詩穂。結婚式は、やめるわ」

 彼女の手から資料が滑り落ち、テーブルに音を立てた。

「えっ?」

「亮介とは結婚しない。ロンドンでの仕事を受けることにしたの。二週間後には発つわ」

 詩穂の顔から血の気が引いていく。

「由紀菜、冗談でしょ? 七年も付き合ってたのに、急にやめるなんて。ただの喧嘩なんでしょ?」

「喧嘩じゃないわ」

 私は首を横に振った。

「努力じゃどうにもならないこともあるの」

「でも、子供ができたばかりじゃない! 亮介くんの投稿見たけど……」

「あれは私の子供じゃない」

 私は彼女の言葉を遮った。

「あれは、彼と夏希の子供よ」

 詩穂は口を大きく開けたまま、しばらく言葉を失っていた。

 事の顛末をすべて話し終えると、詩穂は激昂してテーブルを叩いた。

「あの最低男! よくもそんなことができたわね! ここ数年、あんたがあいつのためにどれだけ犠牲を払ってきたと思ってるの!? 裏切るなんて信じられない!」

 私はうつむき、胸の奥からこみ上げてくる悲しみを懸命に押し殺した。

「もっと許せないのは……」

 詩穂の声が震えている。

「あいつを助けるためじゃなかったら、由紀菜だって本来なら……」

「詩穂」

 私は手を上げ、それ以上の言葉を制した。

「もう言わないで。すべて終わったことよ。今さら何を言っても、もう意味がないの」

 詩穂は何か言いかけたが、最後はただ悲しげな瞳で私を見つめるだけだった。

 私たちはしばらく沈黙のまま座っていたが、不意に詩穂が小さな声で尋ねた。

「亮介くんは、由紀菜の決断を知ってるの?」

「すぐに知ることになるわ」

 私はコーヒーカップを持ち上げた。

「すべてが、完全に終わった後にね」

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