第3章
由紀菜の視点
「明日から、夏希がここに住むことになった」
マンションの扉を開けた瞬間、亮介がいきなりそんな言葉を投げつけてきた。
リビングへ目をやると、ソファに座った夏希が愛おしそうにお腹をさすり、その傍らで亮介が甲斐甲斐しく世話を焼いている。
「医者が言うには、もう妊娠後期の大事な時期らしい。二十四時間のケアが必要なんだ」
亮介は顔も上げずに続ける。
「ここにいれば、何かあっても俺がすぐに病院へ連れて行ってやれるからな」
私は玄関に立ったまま、言葉を失っていた。
ここは私たちが三年も一緒に暮らしてきた家だというのに、新しい同居人が増えることを、私は最後の最後に知らされたのだ。
「由紀菜、嫌じゃないかな?」
夏希が申し訳なさそうに小声で尋ねる。
「急なことだとは思うんだけど、でも……」
「もちろん、構わないわ」
私は努めて平静に答えた。
「お腹の子が一番大事だもの」
亮介はあからさまに安堵の息を漏らした。きっと私を説得するための文句をあれこれ用意していたのだろうが、まさかこれほどあっさりと私が『聞き分けよく』振る舞うとは思っていなかったに違いない。
「わかってくれてありがとう、由紀菜」
彼は言った。
「ほんの一時のことだから。子供が生まれれば……」
「いいの」
私はその言葉を遮った。
「シャワーを浴びてくる」
寝室へ向かう背中に、夏希に語りかける亮介の声が聞こえてきた。
「ほら見ろ、由紀菜は物分かりがいいんだ。きっと理解してくれるって言っただろ」
物分かりがいい、か。
私は無表情のまま寝室のドアを閉めた。
もし私が、ここを去るための航空券を既に手配済みだと知ったら、彼はそれでも私をそう評するだろうか。
……
それからの数日間、私はこの家が少しずつ見知らぬ場所へと変貌していく様を眺めていた。
夏希の荷物が次々と運び込まれる――妊婦用の抱き枕に胎児心拍計、数々のサプリメント。リビングのテーブルは薬瓶で埋め尽くされ、ソファには彼女専用のブランケットが我が物顔で広げられている。
対照的に、私の私物は『自然な流れ』で姿を消すか、別の場所へと追いやられていった。
「私のヨガマット、どこ?」
ある朝、私はいつもの道具が見当たらないことに気づいた。
「物置に入れたよ」と亮介。
「夏希が産前運動をするのに、あのスペースが必要なんだ」
私はリビングの片隅に目をやった。そこは毎朝私が体を動かしていた場所だ。今は夏希のマタニティヨガマットが敷かれ、バランスボールが鎮座している。
一番美しい朝日が差し込むその場所で、私は数え切れないほどの静かな朝を過ごしてきた。だが今、そこは別の女のものになってしまった。
「由紀菜、ごめんね。場所を取っちゃって……」
キッチンから出てきた夏希の手には、亮介が絞ったフレッシュジュースが握られている。
「気にしないで。確かにあそこが一番日当たりがいいものね」
亮介が顔を上げ、私の抗議を待ち構えるような視線を寄越す。だが私はただ頷くだけで、物置へと足を向けた。
扉を開けると、薄暗く狭苦しい空気が淀んでいて息が詰まりそうになる。それでも私は雑多な荷物の山をかき分け、数分後、ようやく段ボール箱の下敷きになっていたヨガマットを見つけ出した。急いで引っ張り出し、逃げるように扉を閉める。
「あったわ」
亮介に短く告げると、私は振り返りもせずに家を出た。
……
翌日の午後、帰宅した私は、夏希がリビングの模様替えをしている現場に出くわした。
サイドテーブルの前に立つ彼女の手には、繊細な細工のオルゴール――亡き母が遺した唯一の形見があった。
「それを置いて」
私は早足で歩み寄った。
「母の形見なの。触らないで」
「由紀菜、私はただ赤ちゃんのためにリビングを整えようと……」
夏希はオルゴールを掲げたまま言う。
「ここに置いてあると危ないし、もし落ちたら……」
「触らないでと言ったの!」
私は声を荒げ、手を伸ばして奪い取ろうとした。
「そんなに興奮しないでよ……」
夏希が一歩後ずさる。
お互いの手が交錯し、揉み合いになり、オルゴールが彼女の手から滑り落ちた。
ガシャッ!
床に散らばる破片を見て、心臓が締め付けられるような痛みが走る。呼吸すらままならない。
「最悪!」
私は憎々しげに夏希を睨みつけた。
「触るなと言ったのに!」
「由紀菜、わざとじゃ……」
夏希が後ずさる。
「わざとに決まってる!」
感情が爆発し、私は思わず彼女を突き飛ばした。
「お母さんの大切な形見を、あんたはわざと壊したのよ!」
突き飛ばした力は大したものではなかったはずだ。しかし、夏希は突然大仰に後ろへと倒れ込み、派手な音を立てて床に尻餅をついた。
「きゃあ!」
彼女は悲鳴を上げてお腹を抱え込む。
「由紀菜、なんてことを! お腹が……痛い……赤ちゃんが……」
「え……」
倒れ込んだ夏希を見下ろし、私は自分が制御を失っていたことに気づく。
書斎から飛び出してきた亮介が、怒号を飛ばした。
「由紀菜! 何てことをするんだ! 彼女は妊婦なんだぞ!」
「違うの……あの子が大袈裟に……」
私は説明しようとした。
「まだ言い訳をする気か!」
亮介は慎重に夏希を抱き起こす。
「病院へ連れて行く。お前は少し頭を冷やせ!」
「亮介……」
だが彼は、夏希を抱きかかえて慌ただしく出て行ってしまった。
ガランとしたリビングに取り残され、母のオルゴールの残骸を見つめていると、不意に、乾いた笑いがこみ上げてきた。
これが、この家における私の立ち位置。
いつだって私が悪者にされる。
私はしゃがみ込み、破片を丁寧に拾い集めた。オルゴールは修理できるかもしれない。けれど、一度壊れてしまえば二度と元には戻らないものもある。
二時間後、戻ってきた亮介の顔は陰鬱だった。
「医者は、夏希も子供も無事だと言ってた。ただのショック状態だと」彼は言った。
「だが由紀菜、しばらくここを出て行ったほうがいい。頭を冷やしてくれ」
私は彼を見つめた。七年も愛し続けた男を。
「わかったわ」私は言った。
「今夜のうちに出て行く」
亮介は呆気にとられたようだ。
「そんなにすぐに? 弁解もしないのか?」
「弁解なんて必要ないもの」私は淡々と告げる。
「この家では、いつだって私が間違っていることになるんだから。なら、私がいなくなるのがお互いのためでしょう」
彼の選択肢に私が選ばれることは永遠にない。それはもう、嫌というほど思い知らされた。
「由紀菜……」彼の声に不安が滲む。
「やっぱり話し合うべきだ。最近のお前、どこかおかしいよ」
おかしい?
「おかしくなんてないわ、亮介。ただ、目が覚めただけ」
私は寝室へ向かい、荷造りを済ませると、そのまま家を後にした。
……
スーツケースを引きずり、ホテルのドアを開ける。臨時に手配したVIPスイートルームだ。
部屋のテーブルには、可愛らしいバースデーケーキとカードが置かれていた――ホテルからのサプライズだ。
私は立ち尽くした。
そうだ、今日は私の二十七歳の誕生日だった。
亮介は夏希の世話に追われ、病院へ連れて行くのに必死で、今日が何の日かすら思い出せなかったのだろう。七年間、彼は毎年必ずこの日にサプライズを用意してくれた。一年目は薔薇の花束、二年目はネックレス、三年目は指輪……。
なのに今年は、私の誕生日に、彼自身の手で私を家から追い出した。
私はケーキの前に座り、ろうそくに火を灯す。
「お誕生日おめでとう、由紀菜」
自分自身に向かって呟く。
頬を涙が伝ったことにすら、私は気づかなかった。
