第4章

【由紀菜視点】

 ホテル暮らしを始めてからの数日、私は息を潜めるようにして諸々の事務処理をこなしていた。花屋のキャンセル、披露宴会場の解約、招待客への連絡……。

 亮介からの連絡はない。夏希の世話にかかりきりなのかもしれない。あるいは、私が単にへそを曲げているだけで、いつものように機嫌を取れば戻ってくると思っているのだろう。何しろ、結婚式は目前に迫っているのだから。

 だが彼は知らない。私がすでに、永遠の別れに向けて着々と準備を進めていることを。

 挙式の三日前。私は買い出しに出かけた。もうすぐロンドンへ発つ。そのための大型スーツケースと、いくつかの旅行用品が必要だった。

 ショッピングモールに足を踏み入れた時、まさかベビー用品売り場で彼らと鉢合わせするとは思わなかった。

 亮介は夏希の肩を優しく抱き寄せ、二人はベビーベッドの前で何やら話し込んでいる。夏希は彼の胸に寄りかかり、いかにも守ってあげたくなるような素振りをしていた。

「この色じゃ地味すぎるよぉ。赤ちゃんにはもっと明るいのがいいな……」

 夏希が甘ったるい声で言う。

「じゃあ、このスカイブルーにしよう」亮介は笑って応じた。「俺たちの息子も、きっと気に入るはずだ」

 俺たちの、息子。

 私は少し離れた場所から、その光景を静観していた。

「由紀菜?」

 亮介の声に我に返る。向こうも私に気づいたようだ。

「どうしてここに?」

 亮介が気まずそうに尋ねる。私は手にした買い物リストを軽く掲げてみせた。

「買い出しよ」

 カートに載せた大型スーツケースを目にして、亮介が眉をひそめる。

「そんな大きなスーツケースを買ってどうするんだ?」

「新婚旅行用よ」私は平然と言った。

「荷物が多くなるから」

「ああ、そうか。挙式の後はモルディブだったな」彼の表情が緩んだ。

「式の準備は大丈夫か?」

「ええ」私は微笑む。

「万事、抜かりなく」

 私が消える準備も含めて。ここ数日、式の細々とした手配をすべて自分から引き受けてきたのは、彼に余計な心配をさせないため──というのは表向きの理由だ。おかげで彼は今もなお、すべてが計画通りに進んでいると信じ込んでいる。

 不意に、夏希が口を開いた。

「由紀菜ちゃん、新婚旅行は長いの? 亮介くん言ってたよ、生まれたばかりの赤ちゃんとなるべく一緒にいたいからって……」

 その場に冷たい空気が流れる。

 亮介が顔色を変えた。

「夏希、滅多なことを言うな」

「変なことなんて言ってないよぉ。昨日の夜も言ってたじゃない。子供の成長する瞬間は全部見逃したくないって。だって、亮介くんにとって初めての子なんだし……」

 私はその茶番を冷ややかに見つめていた。こんな期に及んでまだ、夏希は私にマウントを取ろうとしている。

「いい加減にしろ、夏希」

 亮介が声を荒らげる。

「由紀菜は俺の婚約者だ。あと三日で結婚するんだぞ」

 夏希は殊勝らしくうつむいた。

「ごめんね……ただ、赤ちゃんが心配で……」

 珍しく私を庇う亮介を見ても、心は凪いだままだった。

 何もかも、手遅れなのだ。

「いいの」

 私は淡々と言葉を紡ぐ。

「夏希さんの言う通りよ。子供には父親が必要だもの」

「由紀菜……」

 亮介が何か言いかける。

「お先に失礼するわ」

 私はそれを遮った。

「買い物も済んだし」

「由紀菜、一緒に帰ろう。車で送るよ」

「いいえ、私は……」

「遠慮するなよ」

 亮介は譲らない。

「俺たちもそろそろ帰るところだったんだ」

 言い訳を重ねるのも面倒になり、私は頷いた。

 エレベーターに向かう途中、亮介のスマホが鳴った。

「会社からだ。緊急の用件らしい」

 画面を見て、彼は言った。

「先におりててくれ。電話が済んだらすぐ行く」

 扉が閉まり、狭い箱の中に私と夏希だけが取り残される。

「実はね、ずっと感謝してるんだよ、由紀菜ちゃん」

 唐突に彼女が切り出した。

「由紀菜ちゃんが代理出産を認めてくれなかったら、私が亮介くんの子供を産むチャンスなんて永遠になかったもん」

 私は何も答えなかった。

 彼女がさらに言葉を続けようとしたその時、異音が響いた。

 ガクンッ──。

 不意にエレベーターが激しく揺れ、停止した。照明が数回明滅し、やがて完全に闇に沈む。

 瞬く間に暗闇が私たちを包み込んだ。

「な、何?」

 夏希が怯えた声を上げる。

心臓が早鐘を打ち始める。この閉塞感、この闇。三年前の、あの悪夢のような夜がフラッシュバックする。

 だめ、思い出しちゃだめ……。

「ただの故障よ」

 私は努めて冷静さを保ち、非常ボタンを押した。

「すぐに助けが来るわ」

 だが、刻一刻と時間が過ぎるにつれ、狭い箱の中の空気が薄まっていくような錯覚に襲われる。

「由紀菜ちゃん、大丈夫?」

「私……息が……」

 壁に背を預け、必死に呼吸を整えようとする。

「由紀菜ちゃん?」

 夏希の声色が、苦痛に歪んだものへと変わった。

「お腹が……痛い……」

 私は無理やり意識を彼女の方へと向けた。そうでもしなければ、恐怖に飲み込まれてしまいそうだったから。

「しっかりして、夏希さん」

 震える声で励ます。

「もうすぐ助けが来るから」

 だが、夏希の容体は悪化していく。彼女は荒い息をつき、お腹を強く押さえていた。

「由紀菜ちゃん、私……産まれそう……」

 え?

「そんな、まだ三十六週でしょ……」

「破水したの!」

 夏希が悲鳴を上げた。

 その時、外から救助隊の声が響いた。

「中に人はいますか! 救助隊です!」

「ここです!」

 私は声を張り上げた。

「妊婦がいます! 早産になりそうです!」

「今助けます! ただ、箱が完全に噛んでしまっていて時間がかかりそうだ!」

 数分後、こじ開けられた隙間から光が射し込んだ。そこから亮介が顔を覗かせる。

「夏希! 由紀菜!」

 彼は焦燥しきった様子で手を伸ばした。

「いつ落下してもおかしくない状況だ!」隊長が怒鳴る。

「この隙間じゃ一人ずつしか引き上げられない。急いでくれ!」

 苦痛に呻く夏希を見て、私は「彼女を先に」と言いかけた。

 だが、亮介は一瞬の迷いもなく、夏希の方へ手を伸ばしていた。

「夏希が先だ! 産まれそうなんだよ!」

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