第5章

由紀菜視点

 一秒の迷いもなかった。

 チラリと目を向けることさえ、彼はしなかった。

 そうして、夏希だけが無事に助け出された。

「由紀菜、頑張れ!」

 開いた扉の向こうから、亮介が私に向かって叫ぶ。

「すぐに助けるからな!」

 だがその時、外から夏希の苦しげな呻き声が聞こえてきた。

「亮介……痛い……病院、ついてきて……お願い……」

 亮介の焦燥しきった声が響く。

「由紀菜、まずは夏希を病院に連れて行かなきゃならない! お前はレスキュー隊がなんとかしてくれる!」

 その言葉を最後に、彼の姿は掻き消えた。

 彼は、夏希を選んだのだ。

 生死に関わる瀬戸際でさえ、私にも危険が迫っているというのに、彼が選んだのは私ではなかった。

 暗闇の箱に取り残され、パニック障害が完全に私を支配する。胸に巨石を置かれたかのように、呼吸をするたびに苦痛が走る。

 その時、エレベーターが再び激しく揺れた。

 ガクンッ――ゴオオオオッ!

 箱が落ちる。

「きゃあ!」

 私は悲鳴を上げた。

 暗闇の中で、三年前の記憶がフラッシュバックする――。

 あの日、私と亮介は記念日を祝うために車で山へ向かっていた。トンネル内での突然の崩落事故。落下してきた岩石が直撃し、亮介は頭から血を流して意識を失った。

 私は必死の思いで彼を比較的安全な隅へと突き飛ばした。その直後だ、二度目の崩落が起きたのは。

 私は一メートル四方にも満たない狭小空間に閉じ込められた。四方は岩、岩、岩。暗闇。身動き一つ取れない……。

 救助されるまでの四時間、私はそこで死ぬのだと思っていた。

 結局私は死ななかったけれど、あまりに大きな代償を払うことになった。

 亮介は、この真実を永遠に知ることはない。

 地上十メートルの地点で、エレベーターは唐突に停止したらしい。その時にはもう、私は意識を手放していた。

 ……

「意識が戻りましたよ」

 ゆっくりと目を開けると、そこは病院のベッドの上だった。

 亮介が慌ただしく病室に入ってくる。

「由紀菜、よかった、無事だったんだな! 医者がパニック障害の発作が酷いって言ってたけど、いつからそんな病気を……」

「私は大丈夫」

 彼の言葉を遮る。

「それより、夏希は?」

「産まれたよ。男の子だ。健康だよ」

 彼は喜びを露わにして言った。

「早産だったけど、母子ともに無事だ」

 私は小さく頷く。

「それはよかったわね。おめでとう、亮介。ついに、望んでいたものすべてを手に入れたのね」

「由紀菜、今日のことは本当に混乱していて、その……」

「いいの」

 再び彼を遮る。

「あなたの選択は理解してるわ。彼女はあなたの子を宿していたんだもの。優先するのは当たり前よ」

 亮介は言葉に詰まった様子を見せた。

「由紀菜……」

「本当に、気にしないで」

 私は窓の外へ視線を逃がす。

「ただ、疲れただけだから」

 その時、亮介のスマートフォンが鳴った。夏希からだ。

 苦渋に満ちた表情を浮かべる彼を見て、私は淡々と告げる。

「行きなさいよ。彼女、あなたを必要としてる」

「由紀菜、俺は……」

「行って」

 私は目を閉じた。

「結婚式で会いましょう」

 亮介は少しの間躊躇っていたが、最後には立ち上がった。

「じゃあ、先に彼女の様子を見てくるよ。結婚式でな」

 彼がドアに手をかけた瞬間、私は口を開いた。

「さようなら、亮介」

 亮介は振り返り、何か違和感を覚えたような顔をした。だが、電話口で夏希に急かされ、彼は慌ただしく病室を出て行った。

 それから数日間、亮介が病院を離れることはほとんどなかった。

 ふと由紀菜の『さようなら』という言葉が頭をよぎり、電話をかけようとするたびに、新たな緊急事態が彼を阻んだ。

「亮介、赤ちゃんが熱を出したの!」

「亮介、ミルクを飲んでくれないの、どうにかして……」

 彼は自分に言い聞かせ続けた。

『由紀菜ならわかってくれる。あいつはいつだって聞き分けがいいからな。式が終わったら、たっぷり埋め合わせをしよう』

 タキシードに身を包み、教会の前に立つその瞬間まで。

「名木田様、本日の挙式予定はございません」

 教会のスタッフは予約台帳をめくりながら、事務的に告げた。

「文室様が二週間前に、すべての手配をキャンセルされましたので」

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