第1章
水原杏奈はポテトチップスの袋を抱え、寮の自室のベッドで丸くなっていた。タブレットの画面で展開される甘いラブストーリーも、窓の外に広がるバレンタインデーの凍てつく空気を温めてはくれない。
その時、ガチャリと乱暴にドアが開き、甘ったるい香水の匂いと共に石田かずみが飛び込んできた。彼女は杏奈のクローゼットに目を走らせ、吊るされた梅色のタイトスカートを見つけるなり、ぱっと顔を輝かせる。
「あ、杏奈! このスカート、借りていっていい? 今夜のデートに着ていきたいんだけど!」
石田は言うが早いかスカートをもぎ取り、自分の腰にあてがうと、姿見の前でくるりとターンしてみせた。
「ごめん、それ、今日私が着るから」
杏奈はポテチの袋を傍らに置き、自分でも驚くほどきっぱりとした声で言った。
石田は面白そうに片眉を上げる。
「へえ? 誰と? もしかして、西崎先輩?」
その声には、隠そうともしない嘲りの色が滲んでいた。
「どうせまた、既読スルーされて終わりなんじゃない?」
部屋の隅にいた他の女子二人が、すかさず会話に割り込んでくる。
「西崎志宝? あの医学部の超イケメンの?」
「あの人、ファンクラブみたいなのあるって本当?」
「杏奈と西崎先輩って、小中高大ずっと一緒で、家もお隣同士なんでしょ」
石田は意味ありげな笑みを杏奈に向けた。
「なのに、永遠にただの『後輩』ちゃん、みたいだけどね」
杏奈は唇を固く結んだまま何も答えず、手元のスマートフォンの冷たい画面を無意識に指でなぞった。
夜の九時半。寮の部屋には、いつの間にか杏奈一人だけが残されていた。例の梅色のスカートを手に取ると、襟元に見覚えのあるファンデーションの染みが付いていることに気づく。石田が試着した時につけたのだろう。爪で擦ってみても、それは頑として落ちなかった。
「……最悪」
低く悪態をついた、その瞬間。手の中のスマホが、着信を告げて淡く光った。画面には『西崎志宝』の四文字。
杏奈の心臓が、ドクンと大きく跳ね上がる。ひとつ深呼吸をしてから、恐る恐る通話ボタンをスライドさせた。
「いま、平気か?」
電話の向こうから、少し気だるげな西崎の声が聞こえる。
「……今?」
杏奈はスマホを握りしめ、わざと冗談めかした口調で返した。
「へえ、奇遇だね。バレンタインの夜に、まさか本命の子にドタキャンでもされた? それで私のこと思い出した、とか?」
二秒ほどの沈黙。やがて、吹き出すような短い笑い声が鼓膜を揺らした。
「好きにしろよ」
一方的に通話は切れた。
杏奈が呆然と画面を睨んでいると、間髪入れずにLINEの通知がポップアップする。
『好きにしろ。無理強いはしない』
彼女はぐっと唇を噛み、指を走らせた。
『怒ったの?』
返信は、即座だった。
『うん』
杏奈の指が、堰を切ったようにスクリーンを叩く。
『いつもそう。誘いたい時だけ誘って、気が乗らないとすぐいなくなる。私のこと、何だと思ってるの?』
送信ボタンを押すと同時に、彼女はトーク画面から西崎志宝をブロックした。スマホをベッドに放り投げ、くるりと背を向けて本棚から英単語帳を抜き取る。ページをめくり、無理やり無機質な文字列を目で追い始めた。
それから、二時間後。再びスマホの着信音が、静寂を破った。
一瞬ためらったが、画面に表示された名前に杏奈は息を呑む。またしても、西崎志宝からだった。
おそるおそる窓辺に歩み寄り、階下を見下ろした彼女は、自分の目を疑った。黒いセダンの傍らに、西崎が寄りかかって立っている。片手には保温バッグを提げ、顔を伏せてスマホの画面を見つめていた。寮の前ではすでに数人の女子学生がひそひそと囁き合い、彼の方を指さしている。
「あれって、医学部の西崎先輩じゃない?」
「うそ、誰か待ってるのかな……」
杏奈は唇をきゅっと引き結ぶと、意を決して部屋を出た。
「……なんで、ここにいるの」
寮のエントランスを出て、西崎から三歩分離れた場所に立つ。自分でも驚くほど、声は冷静だった。
「粥。持ってきた」
彼はぶっきらぼうに保温バッグを差し出し、それからすっと手を伸ばす。
「スマホ、貸せ」
杏奈は警戒して、思わず一歩後ずさった。
「なんで?」
「ブロック、解除しろ」
その表情には、一切の反論を許さない意志の強さが浮かんでいた。
杏奈が不承不承スマホのロックを外すと、その指の動きを見ていた西崎が、ふっと口の端を上げた。
「ふーん……まだ俺の誕生日なんだ、パスコード」
杏奈が何か言い返そうとした、その時だった。車のドアが開き、聞き覚えのある甘い声が響く。
「西崎先輩、お待たせしました!」
セダンの後部座席から降りてきたのは、得意げな笑みを浮かべた石田だった。
「ごめんなさい、ちょっと寝ちゃってました」
杏奈の手は、差し出されそうになった保温バッグを受け取れぬまま、宙で固まった。
「今日は西崎先輩と脱出ゲームに行ったんですよ。すっごく面白かったです!」
石田は西崎の隣にぴたりと立つと、親しげにその保温バッグをぽん、と叩いた。
「このお店のお粥、すごく美味しいんです。私たちもさっき、食べたばっかりなんですよ!」
西崎はわずかに眉をひそめる。
「こいつが胃の調子悪いって言うから、何か食わせようと思って連れてきただけだ」
「あ、そうだ、西崎先輩! LINE交換しませんか!」
石田はスマホを取り出す。
「今日のお礼、振り込みたいので!」
そのやりとりを眺めながら、杏奈は奇妙な解放感に包まれていた。彼女は静かに数歩だけ後ずさると、音もなく踵を返し、その場を離れた。
寮の自室へと続く道を歩きながら、彼女はバッグに手を突っ込み、指先に触れた英単語帳を、そっと引き抜いた。そして、新しいページを開いた。










