第2章
杏奈が自室に戻るや否や、背後でカーテンが乱暴に引き開けられ、石田かずみがぬっと顔を覗かせた。その唇には、まごうことなき勝利者の笑みが浮かんでいる。
「杏奈、ちょっとここに座ってもいい?」
返事を待たず、石田は杏奈のベッドの縁にどかりと腰を下ろした。むせ返るような香水の匂いが、一瞬にして杏奈のテリトリーを侵食する。
杏奈は膝を抱え、黙って石田を見つめた。
ついさっきまで西崎の車の中にいた女が、今、何食わぬ顔で自分のベッドに座っている。
「杏奈、もしかして誤解してるかもしれないけど」
石田の声が不意に甘くなり、偽りの気遣いを帯びて響く。
「西崎先輩って、あなたの彼氏じゃないよね?」
「そんなこと、一言も言ってない」
杏奈の声は平静を装っていたが、その指先はシーツを強く握りしめ、白い皺を刻んでいた。
石田は勝ち誇ったように目を細める。
「西崎先輩のこと、好きなの?」
「あなたは?」
杏奈は問い返し、射抜くように相手の目を見据えた。
「あなたこそ、さっきあの人の車から降りてきたじゃない」
石田はくつくつと喉を鳴らして笑った。すべてを見透かしている、というような傲慢な笑みだった。
「今夜はたまたま、成り行きで一緒だっただけよ」
彼女はそこで、わざとらしく話題を変えた。
「そうだ、コンビニで買ったっていう温かいお粥、全然飲んでなかったよね」
杏奈は強く拳を握りしめた。
西崎がわざわざ自分のために買ってきてくれたと思っていたお粥は、彼らが「ついでに」手に入れたものに過ぎなかったのだ。
「ちょっと、見せたいものがあるの」
石田はポケットからスマホを取り出した。
「西崎先輩のLINEグループ、知ってる? 小田周も入ってるんだけど」
杏奈の胸に、不吉な予感がよぎる。
「……それが、何?」
「小田くんがね、送ってくれたの」
石田は慣れた手つきで画面をスワイプする。
「ほら、自分で見てみなよ」
差し出された画面には、LINEグループのスクリーンショットが映し出されていた。グループ名は『医学部の王様たち』。杏奈の視線は、まず西崎のアイコンに吸い寄せられ、次いで彼が投稿したメッセージに釘付けになった。
全身の血が、一瞬で凍りつくのを感じた。
『マジで俺のこと彼氏だとでも思ってんのか? 貢ぐにも限度があるだろ』
スクリーンショットには続きがあった。小田周が、一枚の写真を投稿している——英語セミナーで真剣にノートを取る、杏奈の横顔だ。
小田周:『水原杏奈ちゃん、ほんと努力家だよな』
葉川訪:『そんなにガリ勉しなきゃなんないってことは、元が馬鹿だからだろ』
西崎志宝:『おい、消せよ』
システムメッセージ:『メッセージの送信取消可能時間を過ぎました』
杏奈は『メッセージの送信取消可能時間を過ぎました』という無機質な一行を凝視したまま、動けなかった。指先が氷のように冷たい。
西崎が写真の削除を求めたのは、自分のことを心配してくれたからなのか。それとも、自分たちが陰で彼女を嘲笑っていることが、万が一にも本人にバレるのを恐れたからなのか。
「知ってた?」
石田の声が、ナイフのように思考に突き刺さる。
「西崎先輩、あんたのこと全然好きじゃないんだって。いい加減、自覚しなよ。自分の立場ってものをさ」
杏奈は瞬きもせずスクリーンショットを見つめ続け、やがてぽつりと呟いた。
「『葉川訪』って、誰?」
石田は一瞬、きょとんとした顔をした。
「葉川? 西崎先輩のルームメイトだけど。……それが何?」
「その人のLINE、教えて」
杏奈の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
石田は訝しげに眉をひそめ、その意外な反応に面食らったようだったが、それでもどこか面白がるように、葉川のLINE IDを杏奈に送ってきた。
深夜、杏奈はベッドに横たわり、スマホの画面をじっと見つめていた。すでに携帯のロック画面のパスワードは変え、トークリストのトップにピン留めしていた西崎のアイコンも外してある。そして新しく追加した連絡先、『葉川訪』のトーク画面を開いた。相手のアイコンは、開かれた一冊の本だった。
葉川:『なんで俺を?』
杏奈はひとつ深く息を吸い込み、キーボードの上で指を踊らせた。
『あなたと寝たいから』
送信ボタンを押した直後、杏奈はスマホをベッドの脇に放り投げた。心臓が、まるで警鐘のように激しく鳴り響く。なぜこんな狂ったメッセージを送ってしまったのか、自分でも分からなかった。ただ、今は復讐したかった。西崎の友人たちに、自分が彼らの思うような、都合のいい『貢ぎ物』なんかではないと知らしめてやりたかった。
やがて、手元でスマホが短く震えた。画面には、葉川のトーク画面に『既読』の文字が灯っている。一分が過ぎ、二分が過ぎても、返信は来ない。
もう返事はないだろう。杏奈が諦めかけた、その時だった。不意に、別の通知が画面上部に現れた。西崎志宝からのメッセージだ。
『明日の朝の授業、出席表に俺の名前も書いといて』
いつもの、命令口調。頼みでもなければ、感謝もない。まるで杏奈が彼の頼みを聞くのが、当然の義務であるかのように。
杏奈はそのメッセージを凝視し、心の中で乾いた笑いがこみ上げた。
彼女は静かにスマホの画面を消した。暗闇の中、熱い涙が音もなく頬を伝っていく。
西崎の目に、自分はただの都合のいい後輩で、いつでも切り捨てられる駒でしかなかったのだ。
だが、もういい。これからは、ゲームのルールが変わる。










