第2章 偽りの救世主
金碧きんぺき輝く神殿の内で、夏希はゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、高さ十メートルはあろうかという女神の像。その周囲では、永遠に消えることのない聖火が燃え盛っている。
「ここ……どこ?」
夏希は身を起こそうとしたが、自分が華麗な祭壇の上に寝かされていることに気づいた。
さらに彼女を驚かせたのは、着ていたパーカーとジーンズが消え、代わりに純白の聖衣をまとっていたことだ。
「救世主様の御降臨、心よりお祝い申し上げます!」
数十人もの白衣をまとった神官たちが、突如一斉に叫びながら片膝をついた。その声は広大な神殿に響き渡る。
「救世主? 誰が? 私が?」
夏希は慌ててあたりを見回す。
「人違いじゃありません? 私、ただのオタクですよ!」
すると、人垣の中から金髪の男性が一人、歩み出てきた。
その瞬間、夏希の心臓がどきりと跳ねた。
「レオット?!」
彼だ! ゲームと寸分違わぬ容貌! 長身に、典型的な西欧風の顔立ち。金色の髪は聖なる光を浴びてきらきらと輝いている。海の如く深い青い瞳を持ち、豪華な神官服を身にまとい、胸には徽章を飾っている。ゲームの中よりずっとリアルで、ずっと完璧だ!
「うそ……本当にレオット……」
夏希は頬が熱くなるのを感じ、心臓が早鐘を打つのを自覚する。
「私、本当に転移しちゃったの?」
「どうかご安心ください。私は神殿の最高神官、レオットと申します。あなた様こそが、預言に示された救世主様です」
救世主?
「わ、私は……桐原夏希って言います……」
夏希は卒倒しそうになるのを必死でこらえた。これはまさに夢が現実になった瞬間だ! 彼女はうっとりとレオットを見つめ、周りのことなどすっかり忘れていた。
間近で見ると、レオットの高貴で神聖な雰囲気は、思わずひれ伏して崇めたくなるほどだ。
「桐原……興味深い姓ですね」
レオットは微笑む。だが、うっとり状態の夏希は、その笑みに含まれたどこかよそよそしい響きに気づかなかった。
「失礼ながら、救世主様の認証を行わせていただきます」
彼は懐から、微かに光を放つ水晶を取り出した。
「これは預言石。真の救世主だけが、これを輝かせることができるのです」
レオットが水晶を夏希の手に乗せた時、二人の指先が軽く触れ合った。夏希は電流が走るような痺れを感じ、全身がとろけてしまいそうになる。
『きゃあ! レオットと肌が触れ合った!』
彼女は心の中で絶叫した。
瞬間、水晶が微かな光を放った。伝説に語られるほど眩いものではなかったが、確かに光っている。
「ご覧ください。これがその証です」
レオットが手を引いたが、夏希はまだ先ほどの感触を味わっていた。
「奇跡だ! これは奇跡だ!」
周りの神官たちが再び歓声を上げる。
「お疲れでしょう。まずはごゆっくりお休みください。救世主様のお役目については、後ほど詳しくご説明いたします」
レオットは穏やかに言った。
夏希はうわの空で頷き、頭の中ではすでにレオットとの輝かしい未来を想像し始めていた。
『やった! 私、救世主として転移したんだ! レオットはきっと、エリシアにしたみたいに優しくしてくれる!』
◇
夜。神殿の奥深くにある密室で、燭台の炎が揺らめいていた。
レオットが再び姿を現すと、夏希は心臓が口から飛び出しそうなほど興奮した。
『これって、もしかして伝説のプライベートタイム?』
彼女はこっそりと髪を整える。
レオットは分厚い古書をテーブルに置いた。その態度は、昼間よりもずっと冷ややかだった。
「これが、救世主の預言の全文です」
彼はページをめくり、その中の一節を指差した。
「『真偽の双星、先に闇、後に光』と記されています」
夏希は必死に集中しようとしたが、すぐそこにいるレオットの気配に心臓が高鳴るのを止められない。
「真偽の双星?」
彼女はレオットを見上げ、瞳をきらきらと輝かせる。
「それって……救世主が二人いるってこと?」
「正確に申し上げますと、あなた様は『予備』の救世主です」
レオットは彼女の視線を避け、よそよそしい口調になる。
「真の救世主が降臨されるまでの間、神殿の威光を保つための存在、とでも言いましょうか」
夏希の笑顔が、ぴしりと凍りついた。
「予備? 威光を保つため?」
彼女は信じられないといった顔でレオットを見つめる。
「それって……私、ただの臨時職員ってこと?」
「どうかご理解ください。これも大局を考えてのことです」
レオットの口調は恐ろしいほど平坦で、ゲームの中でエリシアに見せたような優しさは微塵も感じられない。
「魔王軍の力は日増しに強大になり、民衆は希望を必要としています。あなた様の存在は、真の救世主が降臨されるまで、民の心を安んじることができるのです」
夏希は世界がぐらりと揺らぐのを感じた。
期待に胸を膨らませて転移してきたのに、自分がヒロインだと思っていたのに、レオットの真実の愛を手に入れられると信じていたのに、結果はただの身代わり?
「じゃあ私はただの道具? 本物が来るまでの、場を温めるための小道具ってこと?」
彼女の声が震え始める。
「あなた様のお役目は、非常に重要です」
レオットは依然として穏やかな口調を保っていたが、その穏やかさは骨身に染みるほど冷たい。
「神殿の象徴となれるのですから。これ以上の栄誉はありません」
「栄誉?」
夏希は目頭が熱くなるのを感じた。
「じゃあ、本当の救世主って誰なの?」
「エリシアです」
その名を口にした途端、レオットの眼差しがふっと優しくなった。それは、夏希が今まで一度も見たことのない、深い愛情に満ちたものだった。
夏希の心は、完全に砕け散った。異世界に転移しても、自分はヒロインじゃない。やっぱり、レオットが他の誰かを愛するのを、ただ指をくわえて見ているしかないんだ。
「じゃあ私はどうなるの? エリシアが来たら、私は捨てられるの?」
「それはまだ定かではありません。数ヶ月後かもしれませんし、数年後かもしれません」
レオットは少し間を置いて言った。
「あなた様の身の振り方につきましては……その時が来れば、神殿がよしなに計らいます」
よしなに計らう。
なんて事務的な言葉だろう。
夏希は深呼吸をして、無理やり自分を落ち着かせた。彼女はレオットの、ハンサムではあるが冷淡な顔を見つめ、心の中に闘志の炎を燃え上がらせる。
『なんでエリシアが私より優れてるって決まってるのよ!』
ゲームの中のエリシアなんて、完璧すぎて嘘くさい聖母キャラじゃないか。綺麗な顔と強力な聖光の力以外に、何があるっていうの?
『私は現代人よ! たかが神官ごとき、この私がどうやって攻略してやるか見てなさい!』
夏希は密かに拳を握りしめた。
彼女は顔を上げ、レオットの瞳をまっすぐに見据え、毅然とした声で言った。
「わかったわ。そういうことなら、私にも条件がある。もっと快適に過ごさせてもらう。美味しい食事、快適な住居、それから十分な自由もね」
夏希は一呼吸置き、口の端に自信に満ちた笑みを浮かべる。
「それと、この世界で最高位の魔法を学びたい。私が救世主だって言うなら、それなりの実力がなくっちゃね?」
彼女はわざと間を取り、レオットの反応を窺う。そして続けた。
「普通の魔法指南役じゃ、格が足りないわ」
夏希は思案するふりをして
「最高レベルの指導が必要ね……例えば、神殿の最高神官様自らのご指導とか?」
レオットは少し虚を突かれたようで、彼女がそんな要求をするとは思ってもみなかったようだ。
「……問題ありません。あなた様が神殿の采配にご協力いただけるのであれば」
「もちろん協力するわ」
夏希はことさらに明るく笑った。
「なにせ、私は『有能な』救世主様でいなくちゃならないんだから」
レオットの端正な顔を見ながら、夏希は内心でほくそ笑む。
『エリシア! あんたが予定されたヒロインだからって、安心しきると思ったら大間違いよ! あんたが来る前に、レオットを完全に私に惚れさせてみせる!』









