第1章

銀座の夜は、いつだってダイヤモンドのように煌めいている。けれど今夜の輝きは、私にとって静かな拷問に他ならなかった。

夫の初恋の人が、帰ってきたのだ。

音楽サロンは流れる光で満たされ、空気は上質なシャンパンと退廃の香りが混じり合っていた。夫である森本健太は人垣の中心で、ヨーロッパから帰国したばかりの『ピアノの女王』、原野紅葉の細い腰を、まるで己の所有物だと誇示するように抱き寄せている。その瞳には、私がこれまで一度も見たことのない、熱っぽい心酔と優しさが浮かんでいた。

「見ろよ、俺たちの紅葉を。たった二十五歳でサントリーホールを満員にするなんてな」

健太の声は大きくない。だが、取り巻きたちの小さな輪の中では、一言一句がやけにクリアに響いた。彼はふと首を巡らせ、ようやく私の存在に気づいたように視線をよこす。まるで義務でも果たすかのように私を頭のてっぺんから爪先まで品定めすると、残酷な笑みを唇に刻んだ。

「梨絵。お前はもう二十八だったか。残念だよな――才能にも賞味期限はある。歳をとれば、指だって思うように動かなくなるんだ」

二十八歳。その数字が、冷たいナイフのように私の心を抉った。私は原野紅葉より三つ年上。それが健太の目には、拭い去ることのできない私の原罪らしい。

「健太さんは、いつもこうして私を守ってくださるの」

原野紅葉が、肌が粟立つような甘ったるい声でささやいた。

「実を言いますと、梨絵さんも昔はピアノがとてもお上手だったんですって。でも……少しだけ、お年を召してしまわれたから。女性って、二十五を過ぎると途端に物覚えが悪くなりますものねえ?」

三年の結婚生活で、彼が私を肯定してくれたことなど一度もない。年齢をあげつらうのは、もはや日常茶飯事だった。彼らの目には、二十八歳の私はとうに賞味期限の切れた商品なのだろう。

私が今着ているのは、健太の秘書が一方的に送りつけてきたドレス。今夜の主役である原野紅葉の衣装と、驚くほどよく似ていた。同じ霞がかった青、同じシルクの光沢。髪型まで、彼女に合わせて緩やかなウェーブがつけられている。まるで私は、念入りに仕立てられた出来の悪い模倣品。オリジナルという傑作の隣で、不快な雑音を立てているだけの存在に思えた。

「見て、森本さんの奥様の格好……」

「原野さんへの敬意の表れかしら? ずいぶん……殊勝なことね」

「安っぽいコピーみたい。もうすぐ三十路ですのに、あんなお若い方の真似をなさるなんて」

招待客たちのひそひそ声が、細い針となって鼓膜を貫き、私の最も脆い部分を的確に刺してくる。私は背筋を伸ばし、鈴木家の令嬢として教え込まれた完璧な微笑みを顔に貼り付けた。爪が食い込む手のひらの痛みだけが、かろうじて私をこの場に繋ぎとめていた。

「梨絵」

まるで今思い出したかのように、健太が召使いに命じるような無神経な口調で言った。

「紅葉のグラスが空だ。新しいシャンパンを持ってこい。いいか、ドン・ペリニヨンのブラック・ダイヤモンドだぞ。彼女はそれしか飲まないんだ。それと……」

彼はスマートフォンを取り出すと、画面に表示された離婚合意書の草案を、わざとらしく私に見せつけた。

「今夜家に帰ったら、財産分与の話をする。鈴木家が俺に負っている三億円は、離婚したからといってチャラにはならないからな」

その瞬間、会場中の視線がスポットライトのように私に突き刺さるのを感じた。三億円の負債、そして無一文で放り出されるという脅迫。彼はこの衆人環視のなかで、私を社会的に抹殺しようとしているのだ。

身体が微かに震えたが、すぐに意志の力で抑え込む。ここで平静を失ってはいけない。この屈辱を、彼の思い通りに完成させてたまるものか。私は小さく頷き、こわばった笑みを絞り出した。

「ええ、わかったわ」

私がビュッフェ台へ向かおうと踵を返した、まさにその時だった。音楽サロンの壮麗な扉が、黒服のボディガード二人によって内側へ押し開かれた。

外からの眩い光と共に、圧倒的な存在感が流れ込んでくる。まるで誰かが音のスイッチを切ったかのように、会場は一瞬にして沈黙に支配され、次の瞬間、それまで以上の喧騒に包まれた。

「うそ! あれって、佐藤真一じゃない!?」

「東京サムライの!? どうしてこんな所に?」

「待って……彼、まだ二十五歳よね?」

「やばい、筋肉……! テレビで見るよりずっと格好いい……!」

群衆は一瞬で興奮の渦に呑み込まれた。女性客は頬を上気させて囁き合い、男たちは憧憬と嫉妬の入り混じった表情を浮かべている。報道陣が我先にと前へ押し寄せ、カメラのフラッシュが突然の豪雨のように焚かれ始めた。

その男――Bリーグの若きスーパースターにして、『東京サムライ』の絶対的エース、佐藤真一――は、揺るぎない自信を全身に纏い、悠然と歩みを進めてきた。完璧に仕立てられたダークスーツが、鍛え上げられたアスリートの肉体を窮屈そうに包んでいる。広い肩幅から引き締まった腰へと続くライン、その一歩一歩が、プロアスリート特有の爆発的なエネルギーを秘めているようだった。若々しく端正な顔立ちに、意志の強い眉と射るような瞳。二十五歳の生命力と、成熟した男の色気が危ういバランスで同居していた。

心臓が、時を忘れて止まった。真一……彼が、どうしてここに?

鷹のように鋭い彼の視線が、部屋の中をゆっくりと薙ぎ払う。やがて、その視線は私の上でぴたりと止まった。硬直した私の身体、手の中の空のトレイ、そして私が原野紅葉に差し出そうとしていたシャンパングラスに――。

瞬間、記憶が堰を切ったように逆流する。三年前、青川学院大学のバスケットコートで汗を流していた少年の姿が、鮮やかに蘇る。彼の真剣で、情熱的な告白が耳の奥で響いた。

『梨絵さん、俺がBリーグに入ったら、世界中にあんたが俺の彼女だって自慢してやる』

だが今は、私が二十八歳で、彼が二十五歳。私は失敗した結婚生活に囚われた惨めな妻で、彼は日本中から賞賛を浴びるスーパースターだ。

この逆転した年齢が、言葉にできないほど私を惨めにさせた。

「佐藤さん! これはこれは、とんだご足労を……!」

健太が、媚びへつらうような笑みを浮かべて駆け寄った。

「面白い見世物があると聞いてね」

真一の声は低く、人を惹きつける響きの中に、隠しきれない嘲りが滲んでいた。彼の視線は健太を素通りし、原野紅葉の演奏のために用意されたスタインウェイのグランドピアノに向けられる。

「ずいぶん立派な小道具じゃないか。ピアノが可哀想になるな」

彼はこともなげにピアノへ歩み寄ると、手にしていた水のボトルを、艶やかな黒い蓋の上に無造作に置いた。

その言葉の意味を誰もが測りかねている間に、水のボトルが「うっかり」と傾き、中の氷水が一気に溢れ出した。磨き上げられた表面を伝い、純白の鍵盤へと無慈悲に流れ落ちていく。

「っと、失礼」

真一の口調に、謝罪の色は微塵もなかった。その鋭い視線が、健太を射抜く。

「……どうやら、本物の価値も分からずに、ただ見せびらかすことしか能がない人間もいるらしい。特に……」

彼は一度言葉を切り、その場にいる全員を見渡すように、ゆっくりと言葉を続けた。

「若ければ何をしても許されると勘違いしている連中とかな。本当の魅力に、歳なんて関係ないだろ」

部屋は、水を打ったように静まり返った。

誰もが、彼の言葉に込められた二重の意味を悟った。この二十五歳のスーパースターが、二十八歳の女性を庇っている?

原野紅葉の顔はみるみるうちに朱に染まり、健太の顔からは血の気が引いて土気色に変わった。

「佐藤さん、一体、何が言いたいんですか」

健太の声が、かろうじて怒りを押し殺して震えた。

真一は、ようやく健太を正面から見据えた。その表情にはあからさまな侮蔑と、若者らしい不遜な光が宿っている。

「言った通りだ。本当に器の大きい人間はな、他人への敬意ってもんを知ってる。……あんたには、縁のない話かもしれないがな。なあ、森本さん?」

わざと引き伸ばされた「森本さん」という呼びかけに、明確な軽蔑が滲んでいた。

メディアのカメラのフラッシュが、狂ったように焚かれ続ける。若きスーパースターが、ビジネスエリートに公然と喧嘩を売っている。明日の見出しは、もう決まったようなものだ。

真一は、健太に反論の隙すら与えなかった。彼は最後に、もう一度だけ、意味ありげな視線を私に投げかける。その瞳は複雑な色をしていた。怒り、痛み、そして何か……私には読み解くことのできない、深い感情が。

そして彼は、現れた時と同じように自信に満ちた足取りで踵を返し、ボディガードに守られながら混乱と喧騒の渦の中を去っていった。

なぜ……。なぜ、今なの? 私が、一番惨めなこの時に。何より、こんなにも若く、輝いているあなたが――どうして、こんな「年増」の私のために。

圧倒的な悲しみと、遅れてやってきた途方もない屈辱が、濁流のように私に襲いかかった。目の奥がどうしようもなく熱くなる。私は唇を強く噛みしめ、情けない涙がこぼれ落ちないよう、ただ必死に顎を上げた。

その夜、森本家に戻った私は、床から天井まで届く大きな窓のそばのソファに蹲り、機械的にスマートフォンをスクロールしていた。

トレンド一位、『#佐藤真一、エリートサロンで年上女性を擁護#』

トレンド二位、『#25歳MVPと28歳人妻――年の差ロマンスか#』

トレンド三位、『#森本健太、公開パワハラが裏目に#』

ネット上のコメントが、爆発的に増えていく。

『年の差カップル爆誕? 真一まだ25だぞ!』

『森本梨絵28歳か……この年の差、なんかそそる』

『若きエースが人妻を守るとか、少女漫画かよ、最高!』

『佐藤真一、分かってるな。大人の女はいいぞ』

一つ一つのコメントが、私の心臓を激しく脈打たせた。年の差ロマンス? 真一と、私が?

ちょうどその時、スマートフォンの画面が淡く光り、メッセージの着信を告げた。

記憶の奥底に、無理やり葬り去ったはずの番号だった。

呼吸が止まる。震える指で、その通知を開いた。

そこに記されていたのは、ただ短い一文だけ。

「梨絵さん。まだ、くだらない男に『ノー』も言えないのか。あんたが俺に教えてくれたんだろ。愛に歳なんて関係ないって」

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