第4章
分厚いカーテンの隙間から差し込んだ朝陽が、床に一筋の光を落としていた。
藤堂詩織はベッドの端に疲れきった様子で腰掛け、指先でスマートフォンの画面をそっと撫でる。画面には先輩の番号が表示されており、もうずいぶん長いこと躊躇していた。
昨夜の晩餐会での出来事が、まざまざと脳裏に蘇る。かつての自分はどれほど滑稽だったことか。男のために、あれほど誇りにしていた自分のキャリアを捨ててしまうなんて。
もしあの時、あの機会を諦めていなければ、彼らは自分を見直してくれたのだろうか、と藤堂詩織は思う。
結局、藤堂詩織は発信ボタンを押した。
もう、迷いたくなかった。
「もしもし、先輩」
彼女の声は掠れていて、どこか微かな弱々しさが滲んでいた。
「藤堂詩織か?」
受話器の向こうから、先輩の穏やかな声が聞こえる。
「どうだ、考えてくれたか? 先輩の頼み、引き受けてくれる気になったかい?」
藤堂詩織は深く息を吸い込み、努めて平静を装って答える。「はい。ただ……」
彼女は一度言葉を区切った。「手が以前ほど器用に動かなくて。高難度の精密な実験をこなせるかどうか、少し不安です」
「ただの学術研究会だ、そんなに緊張することはない。それに、何年も業界を離れていて腕が鈍らない人間なんていないさ」
先輩の優しい口調が藤堂詩織に大きな自信を与え、思わずふっと笑みが漏れた。「では、来月の研究会では、先輩によろしくお願いいたします」
先輩は彼女の声の不調に鋭く気づいた。「それは構わないが、君、体は大丈夫なのか? なんだかとても弱っているように聞こえるが」
自身の癌のことを思い、藤堂詩織は無理に明るく笑ってみせるしかなかった。
「大丈夫です。昨夜あまり眠れなかっただけですから。心配しないでください、ちゃんとやり遂げます」
電話を切り、藤堂詩織はゆっくりとベッドのヘッドボードに身を預ける。顔からすうっと血の気が引いていくのがわかった。
とうとう結城の御隠居様の誕生日がやってきた。藤堂詩織は品の良いドレスに着替え、結城グループへと向かった。
宴会場に足を踏み入れた瞬間、藤堂詩織は目の前の光景に圧倒された。
クリスタルのシャンデリアが煌びやかな光を放ち、ホール全体を白昼のように照らし出している。行き交う人々は皆、A市の各界を代表するエリートや名士ばかりだ。
空気全体が金と権力の匂いに満ちており、この七年間、家庭を守り続けてきた藤堂詩織にとって、それはあまりにも見慣れない世界だった。
ほどなくして、結城時也が結城沙耶と結城和を連れてやってきた。
「ママ」と結城沙耶が甘い声で呼んだが、体に擦り寄ってくる気配はない。
「爺さんから話は聞いているだろう」
結城時也の藤堂詩織を見る目はひどく冷ややかだったが、藤堂詩織はもはや何も期待しておらず、ただこの宴会が無事に終わることだけを願っていた。
結城の御隠居様は、藤堂詩織が教養深く、人情の機微に通じていると考え、彼女に結城時也の妻として彼のそばにいるよう命じたのだった。
藤堂詩織は無理に笑みを作り、結城時也を見つめる。一瞬躊躇してから、そっと手を伸ばし、彼の腕に絡ませた。
二人がホールの中心に差しかかったちょうどその時、白川詩帆が純白のイブニングドレスを身にまとい、優雅に歩み入ってきた。
「白川おばさん!」
子供たちの甲高い声が響く。結城沙耶と結城和は二羽の楽しげな小鳥のように、興奮した様子で白川詩帆のもとへ駆け寄っていった。
その光景を目の当たりにし、藤堂詩織は心の中で苦笑を浮かべずにはいられなかった。
白川詩帆は笑いながら屈みこみ、二人を抱きしめる。そして顔を上げ、藤堂詩織を見つめて、そつのない笑みを浮かべた。「奇遇ですね、詩織お姉さんもいらしてたなんて」
詩織……お姉さん?
そんなふうに呼ばれたのは、初めてだった。
彼女は立ち上がると、訝しげな表情を浮かべる周囲の人々に視線を走らせた。「よくよく考えれば、藤堂詩織と私、姉妹みたいなものなんですのよ」
皆、驚いた表情を浮かべ、ざわざわと囁き始めた。
白川詩帆は続ける。「確か詩織お姉さんのお母様が、幼い頃に私の家に嫁いでこられたんです。だから私たちも家族みたいなものなんですけれど、詩織お姉さんはちっとも私に懐いてくれなくて。もしかして、お姉さんは私のことがお嫌いなのかしら」
彼女はわずかに眉をひそめ、その口調に含みを持たせた。
途端に周囲はひそひそ話に包まれ、少なからぬ人々が藤堂詩織に向ける視線に、侮蔑と軽蔑の色が混じり始めた。
「なるほど、そういうことか。どうりで雰囲気が違うわけだ」
「ええ、白川さんは見るからに名家の御令嬢ですものね」
「聞くところによると、白川さんは以前結城社長と一緒に出張されて、大きな契約を取ってきたそうですよ。本当にお若くて有能でいらっしゃる」
人々は口々に白川詩帆を褒めそやし、次々と彼女に杯を差し出した。
白川詩帆がグラスを手に取ろうとしたその時、結城時也が手を伸ばしてそれを制した。「彼女は酒が飲めない。俺が代わりに飲む」
そう言うと、彼はグラスを手に取り、一気に飲み干した。
周囲の人々はその様子を見て、今度は結城時也の隣にいる藤堂詩織に視線を移した。
一人がグラスを手に近づいてくる。「藤堂さん、結城社長の奥様でいらっしゃるなら、我々にも一杯お付き合いいただかないと」
藤堂詩織はもともと酒に弱かったが、周囲の期待に満ちた視線を受け、逃れられないと悟った。
彼女はグラスを手に取り、ほんの一口含んだだけで、辛辣な液体が胃の中をかき乱し、下腹部の痛みが急激に増した。
その時、結城時也の声が響いた。「飲めないなら飲むな。子供たちを連れて早く帰って休め」
白川詩帆が笑いながらからかう。「結城社長、奥様のこと、本当に大事にされてるんですね」
だが結城時也は藤堂詩織に目をくれることなく、ただ淡々と言った。「結城グループの利害は複雑に絡み合っている。一介の専業主婦が処理できるようなものじゃない。家で安心して子供の面倒でも見ていればいい」
その言葉は一本の針のように、藤堂詩織の心を容赦なく突き刺した。
彼女は拳を固く握りしめ、爪が掌に深く食い込んだ。
「時也、結城家の御曹司ともあろう者が、それが口の利き方か」
陸老爷がいつの間にか宴会場の入口に姿を現していた。彼は車椅子に座り、重々しい声で言った。「藤堂詩織が二人の子供をあれだけ見事に育てているということは、彼女に能力がある証拠だ。会社のことが処理できないとは限らんだろう」
結城時也は何か言おうと口を開きかけたが、結城の御隠居様の一瞥によって制された。
人々は本日の主役の登場に気づき、一斉に杯を掲げて入口へと押し寄せた。
「ご長寿、心よりお祝い申し上げます!」
「お爺様、本日は実にお元気そうで。この一杯、ぜひお受けください!」
杯が交わされる中、白川詩帆はくるりと瞳を動かし、グラスを手に結城時也の隣に割り込んだ。どうしたことか、ふと足をふらつかせ、深紅のワインが彼の胸元の白いシャツを瞬く間に染め上げた。
「あら、大変申し訳ありません、結城社長!」
彼女は慌ててハンカチを取り出して拭おうとしたが、その手首を結城時也が静かに払いのけた。
「構わん」
「予備のシャツを取りに参りましょう。衣装室はよく存じておりますので」
彼女の目尻が、隣の藤堂詩織を得意げに一瞥する。しかし、当の彼女は瞼一つ動かさなかった。
藤堂詩織は、こんないざこざに関わる気は毛頭なかった。
「待ちなさい」
結城の御隠居様がゆっくりと車椅子を動かす。「時也の妻はここにいるではないか。どうして他人に使い走りをさせる道理がある」
彼は藤堂詩織に顎をしゃくった。「お嬢さん、旦那さんの着替えを手伝ってやりなさい」
白川詩帆の顔から笑みが凍りつき、ハンカチを握る指の関節が白くなった。
藤堂詩織はため息をつき、立ち上がって結城時也の後に続いた。
スイートルームの空気は、まるで凝固した氷のようだった。彼はスーツのボタンを外し、無造作にソファへ放り投げる。「お前は出ていけ。ここにお前の出る幕はない」
藤堂詩織は結城時也が自分を好いておらず、それどころか一緒にいることすら厭わしく思っていることを知っていた。結城の御隠居様が強く求めなければ、彼女もこんな面倒事に関わりたくはなかった。
二人が宴会場に戻ると、結城の御隠居様が藤堂詩織の手の甲をぽんぽんと叩いた。「お嬢さん、わしをあちらへ押しておくれ」
車椅子が絨毯の上を滑る音はごく静かだった。藤堂詩織は、少し離れた場所で談笑する結城時也と白川詩帆を眺めながら、離婚という言葉が喉まで出かかった。
「沙耶ちゃんと和ちゃんがな、昨日、わしの肩を叩いてくれると言っておったよ」
結城の御隠居様が不意に口を開いた。「あの二人はお前に良く教えられておる。時也の子供の頃よりずっと聞き分けがいい」
藤堂詩織は唇の端を上げた。すると、お爺様が再び尋ねるのが聞こえた。「先頃、藤堂の家に戻っておったそうだが、何かあったのか?」
彼女は車椅子のグリップを握る手に力を込めたが、静かに首を横に振った。「いえ、何も。ただ、少し様子を見に帰っただけです」
藤堂詩織は仕方なくため息をついた。結城の御隠居様は自分に良くしてくれている。離婚の話は、また日を改めて切り出すことにしよう。







