第1章

午前十時、青山にそびえる新橋医療センター。その一角を占める生殖医療施設の待合室は、間接照明が壁を優しく照らし、静かなボサノバのインストゥルメンタルが流れていた。本来なら、訪れる者の心を穏やかに解きほぐすための空間。けれど、隣に座る夫、天野大輔の手を握る私の指先は、微かに震えていた。

「聖奈、大丈夫。リラックスして」

彼の声は、五年前、私が恋に落ちたあの頃と変わらない、低く魅力的な響きをしていた。親指が私の指の関節を優しくなぞる。

「今度こそうまくいく。僕にはわかるんだ」

この五年、喜びも悲しみも、すべてを分かち合ってきた愛しい人を見上げる。大輔は今日、私が一番好きだと伝えたことのあるネイビーのシャツを着てくれていた。髭は完璧に整えられ、その瞳は純粋な期待にきらめいている。

「天野様ご夫妻ですね。胚培養室の見学にご案内いたします。こちらへどうぞ」

名前を呼ばれると、大輔は子供のようにはしゃいで立ち上がった。

「やっとだ。僕たちの未来が過ごす場所、早く見てみたいんだ」

ガラス張りの無菌室。ずらりと並んだインキュベーターが、生命の源を育むように静かな動作音を立てている。その中で、夫が技術者に矢継ぎ早に質問を浴びせるのを、私はどこか夢見心地で眺めていた。

「もうすぐ僕たちの赤ちゃんに会えるよ、聖奈」

彼は私をぐっと引き寄せ、その温かい手が肩に置かれる。

「これで、会社にも……盤石な未来を約束できる」

私の胸が高鳴った。

「この日をずっと待ってた。やっとあなたに、完全な家族をあげられる」

完全な家族。三年にわたる不妊治療、数えきれないほどのクリニック、そして人知れず流した涙。私たちは、ついにここまで辿り着いたのだ。

「しまった、携帯を着替え室に忘れてきちゃったみたい」

私は空っぽのポケットを叩きながら呟いた。

「取っておいでよ。僕は鈴木先生と、移植手術の詳細を確認しておくから」

大輔は私の額に優しくキスを落とす。

「ロビーで落ち合おうか」

磨き上げられたリノリウムの床にヒールの音を響かせ、私は更衣室へと足を向けた。けれどすぐに、携帯電話はハンドバッグの中に入れたことを思い出す。少し気恥ずかしく思いながら、鈴木先生のオフィスにいる大輔の元へと引き返した。

その時だった。半開きになった院長室のドアから、私の耳に信じがたい言葉が突き刺さったのは。

「聖奈には、欠陥のある胚を移植しろ」

鋭く、冷たい響きを帯びた、紛れもない大輔の声だった。

――え?

足元から世界が崩れ落ちるような感覚に襲われた。欠陥のある胚? 私に? 血の気が引き、その場に縫い付けられたように動けなくなる。

考えるより先に、身体が動いていた。すぐそばにあった備品庫の陰に身を滑り込ませ、息を殺してドアの隙間に意識を集中させる。

「天野さん、それは……存在するあらゆる医療倫理に違反しますよ!」

鈴木先生の、張り詰めた声が聞こえる。

「彼女に欠陥のある胚を移植するなど……正気の沙汰じゃない!」

「鈴木先生」

大輔の声は、氷のように冷え切っていた。数分前に私に向けられた甘い声色とは、まるで別人のものだ。

「俺はあんたの研究室に、年間五百万の金を突っ込んでるんだ。倫理なんぞで俺に説教する気か」

「しかし、聖奈さんはあなたの奥様でしょう!」

「彼女は目的のための『手段』だ」

夫の言葉が、鋭い刃となって私の胸を貫いた。

「綾子の胚は、完璧な遺伝子を持っている。彼女の子だけが、天野家の唯一の後継者となりうる。取締役会には、明確な後継者プランを示してやらんとな」

震える手から、携帯が滑り落ちそうになる。綾子……? 山田綾子。彼の会社のCTO。子供って……どういうこと?

「こんなことをすれば、奥様の人生はめちゃくちゃになります! 彼女は何も知らない、罪のない方なんですよ!」

「罪がない?」

大輔は、笑った。心の底からおかしいというように、声を立てて笑ったのだ。

「あの女は、この三年間、何不自由ない美しい結婚生活を送れたことに感謝すべきだ。綾子の腹の中にいる『息子』こそが、俺たちの未来なんだよ」

息子? 綾子が、妊娠している……?

唇を強く噛み締めると、口の中にじわりと鉄の味が広がった。喉の奥からせり上がってくる絶叫を、私は必死に飲み下す。三年間。赤ちゃんを授かるために、心も身体も犠牲にしてきたこの三年間、彼は、私に欠陥のある胚を移植する計画を、ずっと……。

目の前の廊下が、ぐにゃりと歪む。私は冷たい壁に背中を押し付け、乱れる呼吸を必死に整えようとした。

『この、人でなし……!』

どうにか倒れずにメインロビーまで戻ると、そこに、彼女はいた。

山田綾子が、女王然とした態度で受付カウンターに立っている。いかにも高級そうなブランドのマタニティウェアの上から、慈しむように、しかし見せつけるように、はっきりと丸みを帯びたお腹に手を添えていた。

大きい。本当に、妊娠しているんだ。

「役員向けの不妊治療補助制度について、少しお伺いしたいのですが」

綾子の蜂蜜のように甘ったるい声が、看護師に向けられる。

嘘。お腹は、もう大きい。少なくとも妊娠三ヶ月。もしかしたら四ヶ月は経っているかもしれない。私がホルモン注射の副作用と、それでも消えない希望との間で苦しんでいた間、彼女は大輔の『完璧な』後継者を、その胎内で育んでいたのだ。

綾子の視線が、ロビーの向こう側にいる私を捉えた。彼女は優雅な足取りでこちらへ近づいてくると、その美しい顔に、ゆっくりと勝ち誇ったような笑みを広げた。

「聖奈さん! 奇遇ね!」

その声は、見え透いた気遣いで塗り固められている。

「私も検診に来たの。あなたと大輔さん、体外受精を試してるんですって?」

一言一言が、無数の針となって胸に突き刺さる。私は声を平静に保つことに全神経を集中させた。

「おめでとうございます、綾子さん。大輔も、会社の素晴らしい福利厚生に大喜びでしょうね」

「ええ、本当に」

綾子は、これみよがしに自分のお腹を撫でる。

「もう三ヶ月なの。赤ちゃんは完全に健康で――遺伝子検査の結果も、すべて理想的だったわ」

完璧。健康。理想的。一方で、彼らが私に与えようとしているのは、欠陥品。

「お医者様も、すべてが順調に発育しているって」

綾子は恍惚と目を細めて続けた。

「大輔さん、このプロセスを通して、ずっと親身に支えてくださって」

支える、ですって? 毎日、私の顔を見て嘘を吐きながら。

「待たせてごめんね、聖奈」

背後から、大輔の声がした。振り向くと、そこには完璧な夫の笑顔があった。まるでほんの二十分前に、私の人生を破滅させる計画を冷酷に語っていた男と同一人物だとは信じられないほどに。

クリニック併設のカフェでは、床から天井まである大きな窓から、午後の柔らかな日差しが差し込んでいた。大輔は、いつものように私が頼む前に、好物のカフェラテを注文してくれている。本当に、彼はこの手の芝居が上手い。

「それで、綾子さんが妊娠しているのね」

私は彼の表情から微かな変化も見逃すまいと観察しながら、あくまでさりげない口調を保った。

「ああ、聞いたよ。そりゃめでたいことだ」

彼は心から祝福しているように見えた。

「でも、僕がもっと興奮してるのは、僕たちの赤ちゃんだよ。想像してみてごらん。君の聡明な頭脳と、僕のビジネスセンスを受け継いだ、小さな天才が生まれてくるんだ」

もし私が、さっきの会話をすべて聞いていたと知っても……あなた、まだその目で私を見て嘘を吐けるのかしら。

「考えてたんだけど」

大輔はテーブル越しに手を伸ばし、私の手を取った。

「もし男の子だったら、悠人と名付けよう。いつかバイオラックスを継いで、新橋テックバレー史上最年少のCEOになるんだ」

「もし、女の子だったら?」

その質問は、私の喉をひりつかせた。大輔は、ほんの一瞬、動きを止めた。

「女の子ももちろん素晴らしいさ。でも、聖奈も知ってるだろう? うちみたいな伝統的な企業文化だと、まだ男性の後継者が好まれるんだ」

男性の後継者。綾子の胎内から生まれる、あなただけの。

パズルのピースが嵌まっていくように全体像が見えてくるにつれ、胃の腑が冷たくなるのを感じた。私の、まだ見ぬ我が子さえも、あなたの権力ゲームの駒でしかないというわけね。

首都高速を走る帰りの車内は、いつもなら一日で一番好きな時間だった。けれど今は、まるで長い葬列に加わっているかのような、息の詰まる重苦しさに満ちていた。

「今日は静かだね、聖奈」

大輔がバックミラー越しに私をちらりと見た。

「治療のことで心配してる? 信じて、すべてが完璧にうまくいくから」

「ただ、考えていただけ……」

私は窓の外を流れていく、きらびやかなIT企業のビル群を眺めながら言った。

「私たち、知り合って五年になるけれど。私、本当にあなたのことを知っているのかしらって」

大輔の乾いた笑い声が、車内に響いた。

「何を言ってるんだ。もちろん知ってるさ! 僕たちは運命の相手同士だろ、覚えてる? 君は、僕が今まで出会った中で一番賢い女性だよ」

吐き気がした。

青山の豪邸に戻り、私はまるでロボットのように夕食の準備を始めた。機械的な正確さで野菜を刻みながら、K大で鍛え抜かれた私の頭脳は、すでに問題解決モードへと完全に切り替わっていた。

私が何も知らないと思っているの、大輔? それは、あなたの計算違いよ。

私は無力な犠牲者なんかじゃない。私は天野聖奈。情報工学の博士号を持つ、元トップエンジニア。あなたがデータを弄んで人の人生を壊すというのなら、本当の『技術』がどういうものか、その身をもって教えてあげる。

その時、大輔の携帯が鳴った。

「すまない、ちょっと電話に」

彼はテラスのガラス戸を開け、外へ出ると、声を潜めて焦った様子で話し始めた。ガラス越しに、彼のボディランゲージが変わるのが見て取れた。緊張で強張った肩、苛立ちを示す鋭い身振り、そして隠しきれない動揺。これは、いつもの仕事の電話ではない。

あなたは、他に何を隠しているの?

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