第2章
午前二時。
K大のロゴが入ったくたびれたパーカーに身を縮こませ、私はキーボードの上に指を這わせていた。書斎に置かれた三台の四Kモニターが、青白い光を放ち、壁に複雑な影を落としている。
静寂の中、寝室から聞こえてくる大輔の呼吸音だけがやけに大きく響く。規則正しく、重い寝息。熟睡している証拠だ。
今度は、私の番よ。
VPN接続、多重プロキシ起動。K大で培った知識と、大手IT企業で磨き上げた実践スキル――そのすべてが、今この瞬間のためにあった。
バイオラックス社の医療データベースを護るファイアウォールが、私の前ではまるで紙切れのように脆く崩れ去る。
「さあ、山田綾子。あなたの秘密、見せてもらいましょうか」
画面に表示されたクエリ結果に、全身の血が逆流するような感覚を覚えた。
山田綾子、受精卵検査日:八月十五日
私の記録はこうだ。
天野聖奈、初回コンサルテーション:九月二十八日
六週間。その差、わずか六週間。
「六週間……」
暗闇の中で、自分の声が震えているのがわかった。
「大輔が私に『子作りは焦らなくていい』なんて言っていた、まさにその裏で……あの嘘つき野郎!」
画面をスクロールする指が、次のデータで凍りついた。
受精卵プロファイル:XY染色体。優れたIQの遺伝子マーカー。完璧な運動能力の遺伝子適合。
出産予定日:二〇二四年四月。
注記:CEO優先プロジェクト。機密保持レベル:最大。
キーボードの上に置いた指が、ぴくりとも動かなくなる。
システムアラート:制限ファイルへのアクセスには、より高い権限が必要です。
「高い権限、ですって?」
乾いた笑いが漏れた。
「一体、どんな秘密を隠しているっていうのよ」
私は、学生時代に叩き込んだソーシャルエンジニアリングの戦術を展開する。ターゲットは、バイオラックス社の法務部長。誕生日、ペットの名前、愛車のナンバープレート――あらゆる個人情報を組み合わせ、パスワードを推測していく。
「ビンゴ!」
画面に表示された機密フォルダの中に、心臓が凍りつくようなタイトルのファイルを見つけた。
バイオラックス社株式承継・緊急時プロトコル。
その内容は、吐き気を催すほどに冷酷で、計算され尽くしていた。
『現配偶者が生殖上の義務を履行できなかった場合、または医学的理由により生殖能力を喪失した場合、会社の支配権は、健康な後継者を産むことのできる人物に移行する。本契約は、バイオラックス社の遺伝子技術継承が、個人的な感情要因に影響されないことを保証するものである』
緊急連絡先:山田綾子
医療判断代理人:山田綾子
怒りに任せて、キーボードを力任せに叩きつける。一打一打が、大輔の頭を叩き割るイメージと重なった。
「生殖上の義務ですって? ふざけるな! 私はあんたの子作りマシーンじゃない!」
さらにファイルをスクロールすると、変更履歴が見つかった。この半年間、大輔は何度もこの契約を修正し、そのたびに綾子の立場を強化していた。
「個人的な感情要因……」
再び、自嘲の笑みが浮かぶ。
「つまり私は、いつでも取り替え可能な『変数』でしかないってことね」
土曜日。週末のバイオラックス本社は、墓場のように静まり返っていた。
「週末の残業」という使い古された口実で社内に忍び込んだ私のハンドバッグには、ネット通販の当日配達で手に入れた、超小型の盗聴器が潜んでいる。
四十二階にある大輔のオフィス。全面ガラス張りの壁からは、新橋テックバレーのすべてが見渡せた。普段なら権力と成功の象徴であるその景色も、今の私には、ただの犯行現場にしか見えない。
手際よく、盗聴器を仕掛けていく。大輔の椅子の下、会議テーブルの裏、果てはあの馬鹿でかい観葉植物の鉢の中にまで。
彼の個人金庫に手をかけた時、それが施錠されていないことに気づいた。
中には、綾子の私物が几帳面に整理されていた。妊娠検査薬の箱、オーガニックのビタミン剤、そして一枚のエコー写真。
写真の裏には、丸みを帯びた女の字でこう書かれていた。
『私たちの小さな王子様へ。パパとママはあなたを愛してる――A&D』
その写真を、衝動的にズタズタに引き裂きそうになった。
「聖奈さん? 週末もお仕事ですか?」
振り返ると、ドアのところに警備員の田中さんが人の良さそうな笑みを浮かべて立っていた。
「あ、田中さん!」
私は平静を装い、素早く写真を金庫に押し戻す。
「ええ、まあ。製品リリース前は仕事が尽きなくて。大輔はジムに行きました」
「社長は本当に奥様に優しいんですねえ」
田中さんはオフィスに入ってくると、さりげなく部屋を見回した。
「昨日も、社長と綾子さんが、奥様のための妊娠サプリを選んでいるのをお見かけしましたよ」
私のために? 貼り付けた笑顔が、ぴしりとひび割れそうになる。
「本当ですか? 全然知りませんでした」
「ええ、成城石井の健康食品コーナーで。綾子さんが、聖奈さんに一番いい葉酸とDHAを買ってあげたいんだって、熱心に話してました」
田中さんは、心底感心したように無邪気に微笑んだ。
「お三方の友情には、本当に感動します」
友情、ですって? まるで全世界が、グルになって私を嘲笑っているかのようだった。
午後。会社の地下駐車場で、テスラを発進させようとした時、スマートフォンがLINEの通知を告げた。
送り主は、綾子。添付されていたのは一枚の写真。成城石井のベビー用品コーナーで、親密そうにオーガニックのベビーフードを選ぶ彼女と大輔の姿が写っていた。
『もうすぐ生まれてくる小さな命の準備中❤️ 大輔さん、子供には最高のものを与えたいんだって』
写真の中の大輔は、私には一度も見せたことのない、慈愛に満ちた表情をしていた。
間髪入れずに、二通目のメッセージが届く。
『今日、会社にいたんだって? 仕事熱心すぎ! 妊活中は無理しちゃダメだよ~』
この女、私が会社にいたことを知っている!
スマホを叩き割りたくなる衝動を、奥歯を噛み締めて必死に抑え込む。心の中では、もう一人の自分が叫んでいた。
『いい人ぶるのはやめなさい。あんたの魂胆なんて、とっくにお見通しよ』
帰宅後、キッチンで昼食の準備をしていると、リビングで大輔が珍しく低い声で電話をしていた。
ちょうどその時、私のスマートフォンが静かに点滅した。チューリッヒからの暗号化メッセージだ。
『姉さん、デジタル活動に異常な周波数を検知。手助けは必要?――千代』
スイスのプライベートバンクに勤める妹の千代は、デジタル鑑識とサイバーセキュリティの専門家だ。どうやら私の深夜のハッキングは、プロのレーダーに引っかかってしまったらしい。
『一時的に職場環境を変える必要があるかも。今はまだ動かないで』
そう返信すると、千代からはすぐに短い応答があった。
『了解。緊急脱出プロトコル準備完了。待機します』
その時、大輔が謎めいた電話を終え、キッチンへ向かってくる気配がした。その表情には、普段の自信に満ちた顔とは違う、どこか探るような緊張の色が浮かんでいた。
「聖奈、今日は疲れてるみたいだね」
彼の手が、そっと私の肩に触れる。
「何か心配事でもあるのかい? 仕事のストレスが溜まってる?」
その手の温もりを感じながらも、私の心は氷のように冷え切っていた。
「少し疲れただけ。妊活中って、どうしても神経質になるものだから」
「わかるよ」
大輔の目に、何か得体の知れない光がちらついた。
「今夜は早めに休んだほうがいい。明日、君にいい知らせがあるんだ」
いい知らせ? 私の直感が、もっと大きな罠がすぐそこに待ち受けていると、けたたましく警鐘を鳴らしていた。
夕方。シャワーを浴びるふりをしながら、バスルームのドアに鍵をかけ、ワイヤレスイヤホンで大輔のオフィスのリアルタイム音声を監視する。
水の音がすべてを覆い隠す中、今日最も価値のある会話が、クリアに耳へと飛び込んできた。
「今日のあいつの行動は少しおかしかった。会社にずいぶん長くいたようだ」
大輔の声には、明らかな警戒心が滲んでいた。もう一方の声は、すぐにわかった。綾子だ。
「計画を早めた方がいいかもしれないわ。これ以上、引き延ばすのは危険よ」
綾子の声には、焦りが混じっている。
「聖奈はK大出で、技術に詳しい。もし疑い始めたら……」
「だったら、疑う隙を与えなければいいのよ」
綾子は、大輔の言葉を鋭く遮った。
「鈴木先生が、手術は早めに組めるって言ってたわ。遅くとも来週までには」
心臓が、肋骨を突き破るほど激しく脈打つ。来週? 奴らは来週、私に手を下すつもりなのか?
「だが、もし何か間違いがあったら……」
大輔の声が、わずかに揺らいだ気がした。
「何も間違いは起こらないわ」
綾子の口調は、骨の髄まで凍らせるほど冷たかった。
「医療事故なんて、この世にはいくらでもある。そして、私の子がバイオラックスの未来を、確実なものにするの」
私は歯を食いしばり、舌を噛み切りそうになるのを必死でこらえた。
その時、手の中のスマートフォンが短く振動した。鈴木先生の番号から、テキストメッセージが届いていた。
『手術は早めに、遅くとも来週までに予定することをお勧めします。すべての準備は整っております』
来週。もう、奴らは待つつもりはないのだ。






