第3章

日曜の朝、静まり返ったバイオラックス本社。私は前夜に届いたばかりの超小型ワイヤレスイヤホンを耳に装着し、営業部長の退屈な業績発表に集中しているふりをしながら、大輔のオフィスから送られてくるリアルタイムの音声を監視していた。

「聖奈さん、弊社のユーザー増加戦略について、何かご意見はありますか?」

同僚の小林が、不意に話を振ってくる。

「ええ、非常に有望だと思います」

私は機械的にそう答えながら、イヤホンから漏れ聞こえる声に意識を集中させた。ノイズ混じりだが、聞き慣れた大輔の声だ。

『遺伝子検査の結果、最高レベルのIQと身体的指標を示しています』

綾子の、勝ち誇ったような声が続く。

「聖奈さん? 少し顔色が悪いですけど、大丈夫ですか」

隣に座っていた人事部長の中村さんが、心配そうに私の顔を覗き込んできた。

「少し疲れているだけです、ありがとうございます」

私は、かろうじて声を平静に保った。あなたたちがそんな計画を着々と進めている間、私は愚かにも、私たちの結婚というものを信じきっていたなんて。

会議が終わり、私は中村さんと一緒にエレベーターホールへと向かった。

「中村さん、少しお伺いしたいのですが。会社の不妊治療支援制度、素晴らしい制度だと伺いました」

その言葉に、彼女の目がぱっと輝いた。

「そうなのよ! うちの制度は本当にすごいの! 実は綾子さんが、記念すべき第一号の受益者でね。大輔社長が直々に、最高の医療チームを手配してあげたのよ」

エレベーターのドアが静かに閉まる。密室になった途端、自分の心臓の鼓動がやけに大きく聞こえ始めた。

「その福利厚生は、全社員が対象なのでしょうか?」

「もちろん! でも……」

中村さんは、ひそひそ声で付け加えた。

「正直、綾子さんの待遇はかなり特別。なんといっても、彼女は大輔社長が最も信頼する技術パートナーだから」

「特別、ですか?」

「医療費は全額、会社の経費じゃなくて、大輔社長の個人口座から支払われているの。それに、VIP専用の検診ルートまで手配されてるみたい」

彼女は呆れたように首を振った。

「時々思うのよ。これはもう、福利厚生っていうより……個人的な『計らい』って感じよね」

エレベーターが一階に到着し、中村さんは降りていった。私は、そのまま駐車場階のボタンを押した。

表向きは定期検診ということにして、私は新橋医療センターへと車を走らせた。

「天野さん、ホルモン値にいくつか異常が見られますね」

担当看護師の沙羅さんは、私の検査結果を見て眉をひそめた。

「異常? どうしてそんなことが……」

私は、心底驚いたという演技をする。

「おかしいですね。先月のデータは、完全に正常だったのに。どうして、たった一ヶ月でこんな変化が?」

私は、おずおずと尋ねた。

「検査機器の不具合、ということは考えられますか?」

「まさか、そんなはずは……」

彼女は困惑して首を振る。

「体外受精の治療は一度延期して、まずはお体の調子を整えることをお勧めします」

ハッキングで入手していた改竄前のデータと、目の前の偽りのデータを比較し、私は最も恐ろしい真実を確信する。私の医療記録は、意図的に改竄されていたのだ。

待合室のソファに座っていると、少し離れた場所で、鈴木先生が同僚の医師と話しているのが聞こえてきた。

「一部の症例は、非常に気が進まないんだがね。あの方の影響力は強すぎる……」

「バイオラックスの件ですか? 奥様は、真相を何もご存じないそうですね」

「医療倫理のすべてに反する。だが、私が協力を拒めば……」

私は、膝の上で拳を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込むほどの力で。

夕方、社内のカフェテリアで、私は「偶然」を装って待っていた綾子に呼び止められた。

彼女は、いかにも高級そうなマタニティドレスを身にまとい、その膨らんだお腹がよくわかるように、一番目立つ席に座り、これみよがしに腹部を撫でている。

「聖奈さん! 顔色が優れないわね」

彼女は、周囲の同僚にも聞こえるような大きな声で近づいてきた。

「体外受精の治療って、やっぱり大変なんでしょう? 私は本当に運が良かったわ」

「おめでとうございます。会社の不妊治療支援が、本当にお役に立ったみたいですね」

私は、なけなしの礼儀を総動員して応じた。

「大輔さんは本当に社員思いなの。特に……」

彼女はそこでわざとらしく言葉を切り、悪意に満ちた笑みを浮かべた。

「『価値』のある社員には、ね」

価値がある? つまり、私には価値がないと、そう言いたいわけ?

「それは素晴らしいことですね」

私の声は、自分でも驚くほど穏やかに聞こえた。しかし、腹の底ではマグマのような怒りが煮え繰り返っていた。綾子は、満足げに自分のお腹を再び撫でる。

その場で感情を爆発させそうになるのを、私は必死で抑えつけた。まだだ。まだ、終わらせるわけにはいかない。

その夜、キッチンで夕食の準備をしていると、イヤホンが、今日最も衝撃的な会話を私の耳に届けた。

『鈴木先生、あんたの研究室のことを考えろ。奥さんの医療費のこともな。時には、厳しい選択をしなければならないものだ』

大輔の声は、一切の感情を排した、冷酷無慈悲な響きをしていた。

『私は二十年間、医者をやってきましたが、こんなことは一度も……。これは、無実の女性の人生を破壊する行為です』

鈴木先生の声は、絶望に震えていた。

『綾子の腹にいるのは、健康な男の子だ。バイオラックスの未来そのものだ。聖奈はただの……つなぎの駒にすぎん』

私の手から、野菜を切っていたナイフが滑り落ち、床に甲高い音を立てて転がった。

つなぎの駒?

『手術は確定だ。聖奈が『治療の失敗』を経た後、『医療上の合併症』を理由に子宮を摘出する』

私はキッチンカウンターに寄りかかり、全身をわなわなと震わせた。彼らは、私の妊孕性を奪うだけでなく、私が二度と子供を授かれないようにするつもりなのだ。

夜が更け、私は書斎のデスクに向かっていた。

森本法律事務所の問い合わせフォームに、メールを打ち込み始める。

『医療詐欺と株式を巡る紛争案件で、トップクラスの弁護士を希望。新橋テックバレーのユニコーン企業が関与。証拠はすべて揃っています』

次に、暗号化アプリで千代にメッセージを送った。

『スイスの準備はすべて整った?』

彼女からの返信は、即座に届いた。

『すべて完了。時間はどれくらい必要?』

『奴らに相応の代償を払わせて、綺麗に去るつもりよ』

私は、これまで集めたすべての音声ファイル、改竄前後の医療記録、不正な金の流れを示す証拠を、ひとつひとつ丁寧にフォルダ分けしていく。

「大輔、私がただの従順な妻だとでも思っていた? 本当の実力を見せてあげるわ」

その時、スマートフォンが短く振動した。鈴木先生からの、緊急のテキストメッセージだった。

『手術が明後日に早まりました。もう延期できません。本当に、申し訳ない』

全身の血の気が、一瞬で引いた。

明後日? あと二日で、奴らは私に手を下すつもりだ。

階下から、大輔の明るい声が聞こえてきた。

「聖奈! 明日は箱根の温泉にでも行って、のんびりしよう。手術前に、リラックスしないとな」

私は、開いていたすべてのウィンドウを閉じ、深く息を吸った。

温泉旅行。最後の、優しい罠。私に美しい思い出を与えた後、手術台の上ですべてを破壊するつもりなのね。

私は、完璧な妻の笑みを浮かべて階下へ降りていった。

「素敵ね、あなた。ちょうどリラックスしたいと思ってたところよ」

大輔は、私を優しく抱きしめた。

「愛してるよ、聖奈。明日はきっと、素晴らしい一日になる」

私は彼の腕の中で、静かに目を閉じた。

そう、明日は素晴らしい一日になる。

私にとっては。

でも、あなたたち二人にとっては……終わりの始まりになるのよ。

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