第3章
小川碧さんの後について玄関へ向かう間も、心臓は激しく早鐘を打っていた。背後からは、大理石の床を歩く藤井景の足音が聞こえてくる。私一人にこの話をさせるつもりはないのだろう。
玄関先に立つ中島佑衣は、ひどく緊張した面持ちだった。まるで罠にでも足を踏み入れたかのように、私と藤井景の顔を交互に窺っている。
「藤井杏」と、彼女は慎重に言った。
「来たのは……昨日、藤井景から電話があったから」
胃がずしりと重くなる。
「彼、なんて言ってた?」
彼女はまた藤井景に視線をやった。
「最近、すごくストレスを抱えてるって。それで……不安定になってる、とか?」
藤井景が一歩近づき、優しく、心配そうな声で言った。
「ただ中島佑衣さんにも分かっておいてほしかったんだ。もし杏が何かおかしなことを言っても、それは君のせいじゃない。彼女はいろいろ大変だったから」
もう始まってる。私が口を開くより先に、「頭がおかしい」というステッカーを貼るつもりだ。
「杏は最近、かなりおかしなことを口にするんだ」
藤井景は悲しげに首を振りながら続けた。
「前世だとか、二度目のチャンスだとかね。十八歳になるプレッシャーが、本当に彼女を追い詰めているんだと思う」
中島佑衣は私を見て眉をひそめた。
「前世?」
「そんなこと言ってない」と私は食ってかかった。
藤井景はため息をついた。
「ほらね? 言ったことさえ覚えていないんだ。それが心配なんだよ」
この野郎……。私の言葉を逆手に取ってる。
叫び出したかった。だが、ぐっとこらえて冷静を装う。
「座って話さない? 居間で」
三人で応接室へ移動する。藤井景は、まるでチェスの名人が駒を見つめるように、私と佑衣の両方が見える位置に陣取った。
その時、彼の電話が鳴った。
「すまない、これに出ないと」
彼は廊下に出ながら言った。
「大事な仕事の電話なんだ。二人でゆっくり話しててくれ」
彼が部屋を出た途端、中島佑衣の雰囲気ががらりと変わった。困惑した表情は消え、もっと鋭く、警戒心に満ちたものになる。
「藤井杏」
彼女は声を潜めて言った。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど。藤井景の言ったこと、本当なの?」
「私、不安定に見える?」
彼女はしばらく私の顔をじっと見つめた。
「ううん。むしろ、今まで見た中で一番、集中してる顔をしてる。だからこそ、この状況がなんだか……」
「おかしいって?」
「うん」
彼女は身を乗り出した。
「昨日、藤井景が電話してきた時、まだ起きてもいないことについて、あまりにも詳しすぎたの」
鼓動が跳ね上がった。
「例えば?」
「高校時代にあった私たちの喧嘩の話を、あなたが持ち出すかもしれないって。誤解が原因で、私たちが離れ離れになったっていう、あの話」
彼女は一度言葉を切った。
「その喧嘩の時に、私が言ったとされる言葉を、一字一句正確に描写できたの」
録音データ……。あの録音を使うつもりなんだ。
「中島佑衣」
私は慎重に言った。
「もし、あの喧嘩は、記憶にあるのとは違う形って言ったらどうする」
「どういうこと?」
私は息を吸った。
「藤井景に録音を聞かされたことはある? あなたが私のことを話してる録音」
彼女は目を見開いた。
「なんでそれを……? 待って、あなたも何か聞かされたの?」
「あなたが私のことを、世間知らずだって言ってる録音。誰でも信じちゃうから、いつか誰かに利用されるって」
「そんな……」
中島佑衣は手で口を覆った。
「確かに言った。でも、あなたが思ってるような意味じゃない!」
「どういう意味?」
「あなたのことを心配してたのよ!『杏は優しくて人を信じやすいから、いつか誰かに傷つけられるんじゃないか』って、それが怖かったの」
彼女の声に熱がこもる。
「あなたを守ろうとしてたの! 陰口を叩いてたんじゃない!」
やっぱり。藤井景は彼女の心配の言葉を切り取って、侮辱に変えたんだ。
「編集したんでしょ?」
私は言った。
「文脈を切り取って、私の噂話をしてるみたいに聞こえるように」
「あの狡猾な……」
中島佑衣は言葉を飲み込み、廊下の方をちらりと見た。
今だ。彼女が私を信じるか、それとも頭がおかしいと見限るかの、運命の分かれ目。
「もし私が、完全に常軌を逸したことを話しても、聞いてくれる?」
中島佑衣は一瞬ためらった後、頷いた。
「話して」
「藤井景は私を守ってるんじゃない。私を支配してるの。そして、私たちが経験するのは、これが初めてじゃない」
「初めてじゃないって、どういうこと?」
私が答えるより先に、藤井景の声が部屋に戻ってきた。
「すまなかったね」
彼は椅子に座り直しながら言った。そしてすぐに、部屋の雰囲気の変化に気づいた。中島佑衣が、まるで初めて見るかのように彼を見つめている。
「話はどうだった?」と彼は訊いた。
「よく分かったわ」
中島佑衣は冷たく言った。
藤井景の笑みがこわばる。
「そうか。状況を理解してくれて嬉しいよ」
「ええ、完璧に理解したわ」
彼女の口調に含まれる何かに、藤井景は背筋を伸ばした。
「杏が何か……気になるようなことは言わなかっただろうね?」
「彼女の言ってることは、すべて筋が通ってた」
「中島佑衣さん」
藤井景の声は、私がよく知る、あの優しく見下したような調子を帯びた。
「忘れないでほしいんだが、今の杏の精神状態はとても脆い。もし誰かが彼女の妄想を助長するようなことをすれば……」
中島佑衣が立ち上がった。
「ここで妄想の中に生きてるのは、あなたの方よ」
藤井景の仮面が、ほんの一瞬だけ剥がれ落ちた。冷たく危険な何かが彼の顔をよぎったが、すぐに笑みを取り戻す。
「何か誤解があったようだね」と彼は滑らかに言った。
「誤解なんてない。何が起きてるか、はっきり見えたから」
藤井景は背もたれに寄りかかり、笑みを絶やさない。
「俺はただ、皆のためを思って心配しているだけだよ。こういう状況で、誰かが……不正確な情報を広めると、多くの罪のない人々に問題が及ぶことがあるからね。ビジネスパートナーも含めて」
中島佑衣はぴたりと動きを止めた。
「脅してるの?」
「まさか。ただ、噂や誤解は人間関係を損なう可能性があると言っているだけだ。中島家の人間として、君も俺たちの社交界における安定を保つことの重要性は理解しているだろう?」
部屋中に電気が走っているかのような緊張感が漂う。藤井景が中島佑衣の家族の取引関係を脅していることは、誰の目にも明らかだった。
中島佑衣は彼の目をまっすぐに見つめた。
「藤井杏、あなたと二人だけで話がしたい。今夜、八時に夜花カフェで」
「中島さん、それはどうかと――」
藤井景が言いかけた。
「友人同士のプライベートな会話よ」
彼女は彼の言葉を遮った。
「それとも、藤井杏には自分の友人を選ぶ権利もないとでも言うつもり?」
藤井景は長い間黙っていた。そして口を開いた時、その声は完璧に抑えられていた。
「もちろん、彼女には完全な自由がある」
自由。よく言うわ。
中島佑衣はハンドバッグを手に取ると、ドアへ向かった。そして振り返った時、彼女が藤井景に向けた視線は、地獄さえ凍りつかせるほど冷たかった。
彼女が去った後、藤井景は私の方を向いた。完璧な仮面は元に戻っていたが、その瞳の奥にある計算高さが見て取れた。
「今夜は、賢明な選択をすることを願っているよ、藤井杏」
「どういう意味?」
「一度燃えてしまった橋は、再建するのが非常に難しいということさ」
彼はネクタイを直した。
「それに、中島家は……まあ、自分たちが思っているほど力はない」
彼女を脅してる。それはつまり、彼が本当は怯えているということ。
この悪夢の中で目覚めてから初めて、私は予期せぬ感情を抱いた。
希望を。








