第3章
キッチンのブラインド越しに、朝の光が差し込んでいた。一睡もできずに迎えた朝、コーヒーマグを握る私の手は微かに震えている。
向かいに座る奏介は、きっちりとセットされた茶色の髪を揺らしながら、iPadで書類に目を通していた。かつてあれほど深く愛したその顔が、今はまるで赤の他人のもののように思える。
「今日、三時から検診なの」
私は努めて平静を装いながら言った。
「一緒に行ってくれる?」
画面を操作する彼の指が、一瞬だけ止まる。
「検診?」
奏介は顔を上げ、眉をひそめた。
「スケジュールを確認させてくれよ、美咲……」
まるで計ったかのように、彼の携帯が鳴った。
「悪い」彼は発信者画面に目をやる。「事務所からだ」
電話に出る彼の横顔を、私はじっと見つめる。その唇は昨夜、私に「愛してる」と囁いたばかりなのに。
「何だって? クライアントが提案書の全面修正を求めてる?」
奏介の声が荒らげられた。
「今日中? 無茶だろ……わかった、わかったよ。すぐ行く」
彼は電話を切って私の方を向いた。その瞳の中で何かが揺らめいた。
罪悪感? それとも、安堵?
「本当にごめん」彼は歩み寄り、両手で私の顔を包み込んだ。「青葉市の案件で……クライアントが急に大幅な変更を求めてきたんだ。行かないと」
「大丈夫、一人で行くわ」私は無理に微笑んでみせた。「仕事が第一でしょう?」
奏介は目に見えて安堵した様子を見せた。「君は最高だよ。今夜は寿司を買って帰るから」
「ええ」
彼は慌ただしく部屋を出て行った。閉ざされたドアを見つめながら、私は問う。
本当に仕事に行くの?
午前中は気が散ってしまい、私は機械的に図面と向き合うことしかできなかった。
午後二時半。そろそろ病院へ向かおうと支度をしていたとき、携帯が震えた。
――あの忌々しい配信サイトからの通知だ。
「昼下がりの特別配信! 生放送中」
昼間から? 正気なの?
画面の上で指が止まる。理性では開いてはいけないとわかっていた。だが……。
私はタップしてしまった。
動画が読み込まれた瞬間、私は携帯を取り落としそうになった。
そこに映っていたのは、私たちの新居だった。
私自身がデザインを手がけた、都心のペントハウス。クリーム色のイタリア製レザーソファ、クリスタルのシャンデリア、そして床から天井まで広がる窓越しに見える都会のスカイライン。
二人はすでにマスクを外していた。
私たちのベッドの上で、奏介が玲奈に覆いかぶさっている。
「彼女、本当に検診に行ったの?」
イヤホン越しに、玲奈の息切れた声が聞こえてくる。
「ああ」奏介は彼女の耳たぶを甘噛みした。「緊急事態だって言ったら、一人で行くってさ」
「妊娠中の婚約者を放り出して?」玲奈は大げさに驚いてみせる。「嫉妬されちゃうんじゃない?」
奏介は鼻で笑った。「何に嫉妬するんだよ。あいつは妊娠四ヶ月だぞ。医者からは初期は控えるように言われてるし、今もまだ慎重にしなきゃならない」
「だから、あたしのところに来たってわけ?」
「どれだけ溜まってるか、わかるだろ?」彼の手が彼女の体を這いまわる。「毎晩隣に寝てるのに、指一本触れられないんだから……」
……そういうことだったのね。
胃の底が激しく波打った。
「かわいそうな奏介」玲奈は艶やかに微笑んだ。「今日はあたしが慰めてあげる」
彼女はベッドに膝立ちになり、両手で彼を掴むと、ゆっくりと頭を下ろしていく。まるで極上の珍味を味わうかのように、舌先でその先端を弄ぶ。
奏介は頭をのけぞらせて唸り声を上げ、彼女の髪を掴んでさらに奥へと導いた。
彼女の口が彼を飲み込む。頭が上下に動き、スピーカーからは卑猥な水音が響いてくる。彼の荒い息遣いと、彼女の甘い鼻声が混じり合う。
その動きはあまりに慣れていて、そして飢えていた。深く喉を使うたびに彼の体が微かに震え、腹筋を汗が伝い落ちる。
……おぞましい。熱情などではなく、ただ激しい吐き気が押し寄せてくる。
だが、次に目にした光景が、私を完全に打ち砕いた。
ナイトスタンドの上で、私たちの婚約写真がカメラの方を向いていたのだ。
ベッドの上で、二人は狂ったように貪り合っていた。玲奈が彼の上に跨がって激しく腰を振り、見慣れた部屋にその嬌声が響き渡る。
映像は最後、玲奈の勝ち誇ったような笑みで静止した。
私はその場に崩れ落ちた。胃が激しく波打つ。喉元までせり上がってきた酸っぱいものを手で押さえ、よろめきながら立ち上がった。
事務所の個室トイレに駆け込み、便器に向かって激しく嘔吐する。
検診。危うく忘れるところだった。
唇についた胃液を拭い、腕時計に目をやる――午後三時十五分。
もう間に合わない。
どうでもいい。急用が入ったとでも言っておけばいい。どうせ彼は気にしないのだから。
午後十一時。ドアの鍵が開く音がした。
「ただいま、美咲!」
奏介が入ってくる。その手には確かに、宣言通り寿司屋さんの紙袋が提げられていた。
私はソファに座り、何も映っていないテレビ画面をじっと見つめていた。
「検診はどうだった?」彼が歩み寄り、隣に腰を下ろす。
「急な図面の修正が入っちゃって。行けなかったの」私は表情一つ変えず、淡々と嘘を吐いた。
「そうか」彼は明らかにほっとした様子を見せた。「予約は取り直したのか?」
「来週に」
「よかった」彼は紙袋を開き始めた。「君の好きな握り寿司だ! それと茶碗蒸し。温かいうちに食べてくれ」
私の顔を見て、彼の手が止まる。
「美咲、大丈夫か?」表情が心配の色に染まる。「顔色がひどいぞ」
……大した役者だこと。
「今日の午後、どこにいたの?」私の声は震えていた。
「事務所だよ」奏介はスーツのジャケットを脱ぎながら答える。「合併に関する書類の件で、クライアントに急かされててさ」
「一人で?」
「もちろん」彼は再び私の隣に座り直した。「金曜の夜だってのに、貧乏くじを引いたのは俺だけさ。フロアは真っ暗だったよ」
彼が私のおでこに優しくキスをする。「熱があるんじゃないか? すごく熱いぞ」
「……てっきり」私は彼の瞳を覗き込んだ。「他の誰かと会ってるんだと思ってた」
奏介は眉をひそめた。「誰と会うって? 美咲、何を言ってるんだ?」
その茶色の瞳は、純粋な混乱と心配で満たされていた。真実を知らなければ、間違いなく騙されていただろう。
「ううん、なんでもない」私は視線を落とした。「つわりで、少し情緒不安定になってるのかも」
「ほら、何か食べなよ」彼が容器の蓋を開けると、香ばしい匂いが漂った。「あ、そうだ。玲奈からメッセージが来てた。日曜に一緒にお茶したいって」
玲奈。つい今日の午後、彼とあんなに激しく絡み合っていた女。それが今さら、お茶?
「二人でゆっくり話すのは久しぶりだろうって」奏介は甲斐甲斐しく皿を並べる。「最近、少し距離ができてるんじゃないかって心配してたよ」
距離? 彼女は私の婚約者と寝てるのよ!
「疲れた」私は料理を押しのけた。まぐろの匂いが鼻につき、吐き気を催す。
「わかった。二階まで肩を貸すよ」奏介は私の腰に腕を回し、立たせてくれた。ほんの数時間前、他の女に触れていたその手で。
階段が果てしなく長く感じられた。一歩踏み出すたびに、ナイフの上を歩いているような痛みが走る。
寝室に着くと、彼は私の靴下を脱がせ、布団を掛けてくれた。
「もう寝なよ」彼も横になり、背後から私を抱きしめる。「俺がついてるから」
首筋にかかる彼の吐息は、温かく、一定のリズムを刻んでいる。
「ねえ、奏介?」暗闇の中で、私は唐突に問いかけた。
「ん?」
「私のこと、愛してる?」
「もちろんさ」彼の腕に力がこもる。「一生、愛してるよ」
私は目を閉じた。涙が音もなく枕に染み込んでいく。
人は、こうやって嘘をつくのね。こんなにも自然に。こんなにも完璧に。
午前三時。奏介の寝息が聞こえる。
私は目を開け、天井を見つめた。
ナイトスタンドの上で、携帯が微かに震えた。
玲奈からのメッセージだ。
「美咲、日曜に紅葉通りの新しいカフェに行かない? 十四時とかどうかな? すっごく会いたいよ❤️」
会いたい? 私に? それとも私の婚約者に?
私はチャット画面を睨みつけ、指を動かした。
「今日の午後、あなたが何をしていたか知ってるわ」
そして、それを削除した。
「いいわね、楽しみ」
そう返信を打つ。
最後に、笑顔の絵文字を添えて。
