第3章

香奈視点

 別れ話を切り出したとき、良太は眉ひとつ動かさなかった。

「それだけか?」

 彼はソファにだらしなく寝そべったまま、まるで何の憂いもないといった様子で尋ねてきた。

「三年も付き合って、言いたいことはそれだけ?」

 私はジャケットの襟を正し、彼のTシャツから漂う私たちの残り香を無視しようと努めた。

「何を期待してたわけ? ドラマみたいに劇的な別れのセリフでも?」

「正直なところ?」彼は小さくため息をつき、あの癇に障る薄笑いを浮かべた。「俺たち、最初から本気じゃなかっただろ、香奈ちゃん。今までずっと……ただ都合がよかっただけさ」

 そのあまりに軽い扱いは、予想以上に私の胸を抉った。深夜のメール。バーが閉まった後、温もりと安らぎを求めて転がり込んでくる彼を、三年もの間受け入れ続けてきたのに。公の場に連れ出してくれたこともなければ、バンド仲間に紹介されたこともない。ただの頼れるセフレ扱いだと気づかないふりをしてきた、この三年間。

「そうね。都合がいい女」私は無理やり笑い声を絞り出した。「でも残念、これからは『都合が悪い女』になるわ」

 階段を半分ほど下りたところで、あの音が聞こえた。ジッポライターの蓋を弾く、乾いた金属音だ。あの野郎、私が建物を出し切る前にタバコを吸い始めたらしい。

 禁煙するんじゃなかったのかよ。

 帰宅して自分の部屋を見ると、まるで博物館のようだった。無機質なラインに、誰も使っていない洒落た家具。生活感など微塵もない。

 冷蔵庫には、智也がイタリアンのテイクアウトを残してくれていた。やっぱりだ。容器には、彼の几帳面な字でこう書かれている。「火曜日の夕食――レンジで二分。ドアポケットに粉チーズあり」

 私はパスタを温め、キッチンカウンターに立ったまま食べた。窓の外に広がる街の灯りを眺めている背後で、くだらないリアリティショーの音が垂れ流されている。画面の中では、美男美女たちが最悪の恋愛選択を繰り返していた。なんだか今の私の人生そのものって感じで、妙に皮肉だ。

 智也と絵美。二人はそういう関係になった。

 どんなにテレビに没頭しようとしても、その思考が頭の中をぐるぐると回り続ける。頼みもしないのに、毎週火曜日には朝食を作ってくれた智也。私のコーヒーの好みも、ベッドのどちら側で寝るのが好きかも、完璧に把握していた智也。そんな彼が、今はたぶん絵美の部屋にいる。私には決して見せてくれなかった「完璧な彼氏」の顔をして。

「……ふざけんな」

 誰もいない部屋で、私は毒づいた。

 私はノートパソコンを引っ掴むと、賃貸物件のサイトをスクロールし始めた。智也のあの几帳面で家庭的な生活の残像に甘えて生きるのは、もう終わりにしなきゃいけない。

 水曜日の朝が来たが、いつもの智也特製ブレンドコーヒーの香りはしなかった。コーヒーを淹れる音も、ベーコンが焼ける音も、私の日常を気にかけてくれる誰かの静かな気配も、何ひとつない。

 玄関脇から彼のランニングシューズが消えていた。廊下のクローゼットに置いてあった予備のジャケットも。彼がここにいた痕跡は、かつて彼の荷物が置かれていた場所にある空虚なスペースだけだ。

 スマホが震えた。

「急遽海外へ出張になった。戻りはたぶん金曜。冷蔵庫にオレンジジュースがある――智也」

 短くて、事務的。まるで、ろくに知りもしない同居人からのメモ書きみたいだ。

 私は返信もせず、そのメッセージを削除した。

 オフィスでは、昼休みになる前から噂話が飛び交っていた。

「今朝、黒川さんを訪ねてきた女性、見た?」総務事務員の水原さんが、興奮を抑えきれない様子でコーヒーに砂糖をかき混ぜている。「すっごい綺麗なブロンドでさ、まるで雑誌の表紙から抜け出てきたみたいだったよ」

「どうせまたクライアントだろ」ジュニアアソシエイトの桑本さんがぼそりと呟く。「元夫から慰謝料をふんだくろうとしてる金持ちのバツイチ女とかじゃないの」

「まさか。あれはプライベートよ。黒川さんが降りてきた時の、彼女の笑顔を見ればわかったはず。すごく……なんていうか、親密な感じだったもん」

 私は上の空だった。頭の中を占めているのは、食洗機に残された智也の空っぽのマグカップと、良太の冷淡な別れ言葉、そしてノートパソコンでブックマークしたまま増え続ける、引っ越し先のアパートのリストだけだった。

「それはよかったわね」私は上の空で言った。「きっとお似合いだわ」

「誰が誰にお似合いだって?」

 慶介の声が、鋭利なナイフのように休憩室の空気を切り裂いた。入り口に立つ彼は、まだ法廷用のスーツに身を包んでいて、午前中いっぱい相手側の弁護士を論破してきたシニアアソシエイトそのものの威圧感を放っていた。

 室温が一気に十度は下がった気がした。水原さんは急に自分のマグカップの中身に猛烈な興味を示し始め、桑本さんに至っては「仕事が……」と何かを口ごもると、尻に火がついたように逃げ出した。

「なんでもありません」私は慶介の視線を真っ向から受け止めて答えた。「ただのオフィスの雑談です」

 彼の灰色の瞳が、じっと私の顔を見つめる。下腹のあたりがきゅっと疼く、あのおなじみの感覚。黒川慶介――私の上司。

 三年前、S市の帝国ホテル。会議が終わった後、法曹界の大物たちがこぞって密約を交わす場所だ。

 私は安田さんの代理で来ていた。彼は全国弁護士連合会の祝賀会の前日に食中毒で倒れたのだ。おかげで私は、普段なら私のことなど見向きもしないような法律事務所のパートナーたちと、高いだけで退屈なパーティー会場で当たり障りのない会話をする羽目になった。

 慶介は飲んでいた。私たちがエレベーターに乗る頃には、二人の間の緊張感で空気が燃えそうなほどだった。私は自分に言い聞かせた。酔っ払った上司を部屋まで安全に送り届けるだけ。ただの職業的な親切心だと。

 その時、彼がキスをしてきた。

 優しさも、躊躇いもない――黒川慶介という男は、何事も中途半端にはしない。彼は私をエレベーターの壁に押し付け、所有権を主張するかのように唇を奪った。髪を鷲掴みにされ、身体を押し付けられ、私はまともに思考することさえできなくなった。

 止めることはできたはずだ。止めるべきだった。けれど私は、同じくらいの激しさで彼にキスを返していた。

 翌朝、目が覚めると私は彼のベッドにいて、身につけているのは昨夜彼が着ていたワイシャツだけだった。慶介はすでにシャワーを浴びてスーツに着替え、人生で一度も自制心を失ったことなどない敏腕弁護士の顔に戻っていた。

 彼は私の目の前で、私の口座に一億円を送金した。

「何ですか、これ」分かっていたけれど、私はあえて訊いた。

「昨夜のことは……」彼は法廷で証言するように慎重に言葉を選んだ。「プロにあるまじき行為だった。だが今度は、プロとしての仕事にしよう」

 本来なら激怒すべきところだ。金を突き返し、人事部に訴えるべきだった。だがその時、欠けていたパズルのピースがぱちりとはまるような音がした。

「で、今の私たちはどういう関係ですか?」

「職場では、シニアアソシエイトとアソシエイトだ。それ以上でも以下でもない」慶介は私と目を合わせず、ネクタイを直しながら言った。「外では、契約関係だ。互いに利益があり、口外無用のな」

 契約関係。悪くない。清潔で、面倒がない。感情や期待といった余計なものが入り込む余地もない。

 なんてこった、私、億万長者じゃん。

 それ以来、関係は彼が約束した通り、極めて「プロフェッショナル」なものだった。彼が呼び出し、私が向かい、寝て、帰る。シンプルだ。彼が「泊まっていけ」と言うことはなく、事後の食事に誘うこともなく、私がベッドに持ち込むもの以外、私の人生に一切の関心を示さなかった。

 完璧だ。

 慶介の言葉で、私は現実に引き戻された。

「今夜、家まで送ろうか」

「予定がありますので」私はようやく彼の視線を受け止めた。彼の顎の筋肉がわずかに強張るのが見て取れる。「夕食の約束があるんです」

 彼の表情に何かが過った――読み取るにはあまりに速く、指摘するにはあまりに危険な何かが。私たちの契約に嫉妬は含まれていない。互いのプライベートに関心を持つことなど論外だ。

「デートか?」

 その問いかけは、私たちが抱くべきではない感情を孕んで、その場に重く漂った。

「ええ」私は短く答えた。

 慶介は一度だけ頷くと、鋭い仕事人の顔に戻った。

「なら、いい夜を」

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