第2章

「悠也、会いたかったわ。ここ数日、ずっと家を空けてるんだもの」

 パトカーの後部座席に浮かぶ私の魂は、美奈子の甘ったるい声に吐き気を催した。

 かつて私だけに向けられていたあの優しさは今、すべて彼女のものになってしまった。

 俊哉はバックミラー越しに悠也を一瞥したが、何も言わずに運転に集中している。

「このヤマが片付いたらA市に戻るよ。埋め合わせはちゃんとするから」

 まるで子供をあやすような口調だ。

 幼い頃の記憶が蘇る。悪夢にうなされて泣き出した私を、悠也は同じように優しい声で慰めてくれた。

『大丈夫だ、リリ。兄ちゃんがここにいるからな』

 あの頃は、私たちの絆が永遠だと信じていた。悠也はずっと私を守ってくれると信じていた。

 けれど今、その優しさはすべて美奈子に注がれている。

「そういえば悠也」美奈子が急に声を曇らせる。

「妹さんからまた酷いメールが来たの。私じゃあなたに釣り合わないって」

 私は呆然とした。そんな馬鹿な。彼女にメールなんて送ったことすらない。そもそも連絡先だって知らないのに。

 俊哉が眉をひそめ、何か言いかけたその時、悠也の態度が氷のように冷え込んだ。

「あいつ、また君に嫌がらせを?」

「婚約パーティーで暴れてやるって……私、本当に怖くて」

 美奈子は被害者を演じ切っている。

 嘘よ! 私は必死に悠也に向かって叫ぼうとした。全部デタラメだと伝えたかった。けれど、声は喉から出てこない。

 私はただ、怒りに燃える悠也を見つめることしかできなかった。

「心配するな、美奈子。あいつには相応の報いを受けさせる。君を傷つけるような真似は絶対に許さない」

 俊哉がついに口を開く。

「悠也、少しはリリの言い分も聞いてやるべきじゃ……」

「俊哉。俺の家族の問題に口を出すな」

 悠也は冷たく言い放った。

 世界が音を立てて崩れていく。悠也は彼女の嘘を鵜呑みにし、疑おうともしない……彼の心の中で、私はそんな最低な人間に成り下がっていたのだ。

「ダーリン、数日後の婚約パーティーが楽しみだわ。考えただけでドキドキして眠れないの」

 美奈子の声が再び甘ったるく響く。

 突然、強烈な胸騒ぎが襲った。私は必死に叫んだ。

「駄目! 悠也! 行っちゃ駄目! 美奈子は……あの女は危ないの!」

 だが私の警告など届くはずもなく、悠也は優しく答える。

「ああ、俺もだよ。この事件が終われば、新しい生活が始まる」

「新しい生活」だって? 私のいない未来こそが、彼にとっての理想だというの?

 車はクロ区監察医務院の前に停まった。電話を切って車を降りる悠也の背中を、俊哉は険しい表情で見送っている。

 私は悠也の後を追って建物に入り、彼が防護服に着替えるのを見守った。

 その時、俊哉が慌てて駆け込んできた。

「悠也、リリと連絡がつかないんだ。もう四日も携帯の電源が切れたままだぞ」

 俊哉の気遣いに、胸の奥が少しだけ温かくなる。少なくとも、私を心配してくれる人はいる。私のために声を上げてくれる人がいる……。

 しかし、悠也は鬱陶しそうに吐き捨てた。

「どうせまた何処かの掃き溜めで遊び呆けてるんだろ。探すだけ時間の無駄だ」

「だが、街の連中も数日前から姿を見てないと言ってる。あいつらしくない」

 俊哉は食い下がる。けれど悠也は聞く耳を持たず、解剖室の扉を押し開けた。私のことなど、これ以上聞きたくもないというように。

 私は彼の背中を追い、絶望の中でその肩に触れようとした。だが、私の手は空しくすり抜けた。その時、私はようやく真の意味で理解したのだ――私はもう死んでいて、悠也はこれから私の遺体を解剖しようとしているのだと。

『悠也、私よ……妹のリリよ。お願い、私を見て……』

 心の中で、声なき慟哭が響く。

 解剖室に入り、悠也が検案を始める。私の右腕を持ち上げた瞬間、彼の手がぴたりと止まった。

 指先が、古びた骨折の痕をなぞる。悠也の眉間に深い皺が刻まれた。

 その瞬間、私の魂が震えた! 叫び出したい、彼の肩を揺さぶりたい。必死に伝えたかった――悠也! よく見て! それは私よ!

 悠也はゆっくりと腕を回し、その痕跡をあらゆる角度から凝視する。呼吸が荒くなり、唇が微かに震える。何かを言いかけて、言葉を飲み込む。

『思い出して! お願い、思い出して!』

 私は心の中で狂ったように叫んだ。存在のすべてを懸けて祈った。これが唯一のチャンス、彼に気付いてもらえる最後の希望!

「この骨折痕は……」

 彼が低く呟く。

 心臓が破裂しそうだった。悠也、思い出して! 十歳の時、酔っ払いからあなたを庇って折った腕よ! あなたは私以上に泣いて、自分のせいだと何度も何度も謝ってくれた……忘れるはずがないわ!

 彼の目に浮かぶ困惑、必死に記憶をたぐり寄せようとする表情を見て、私は期待に打ち震えた。もう少しだ! もうすぐ思い出してくれる!

 悠也の指が再びあの懐かしい傷跡に触れ、救いの光が見えかけた――その時だった。

 無機質な着信音が、静寂を引き裂いた。

「城川先生ですか? A市救援センターの佐藤です」

 女性の焦った声が聞こえる。

「お忙しいところ申し訳ありません。でも、リリさんのことが心配で……。もう四日もボランティアに来ていませんし、電話も繋がらないんです。あの子が無断欠席なんてありえません。最近、変わりたい、家族との関係を修復したいって話していたのに……」

 胸の奥に温かいものが込み上げた。私のことを覚えていてくれる人がいる。心配してくれる人がいる。

 だが、悠也の声は苛立ちに満ちていた。

「どうせまた何処かで馬鹿騒ぎでもしてるんでしょう」

「いいえ、あの子はこの仕事に本当に真剣でした。こんなふうに突然消えるなんて……」

 佐藤は必死に食い下がる。

「あのトラブルメーカーの名前を二度と俺の前で出すな!」

 悠也は怒号と共に言葉を遮った。

 彼は乱暴に電話を切ると、私の腕を放り出すように置いた。

「この遺体の解剖はお前に任せる。俺は他の案件を片付ける」

 助手にそう告げる声は冷え切っていた。

 振り返りもせずに立ち去る悠也を見つめ、私の心は完全に砕け散った。

『救援センターの人でさえ心配してくれているのに、あなたは……世界で一番大好きな兄ちゃんだけは、私の生死なんてどうでもいいのね』

 悠也は廊下を早足で歩き、先ほどの奇妙な違和感を振り払おうとしていた。

 ふと、霊安室の前に一人の少年が座り込んでいるのが目に入った。

 膝を抱え、泣き腫らした目で震えている。看護師が優しく声をかけていた。

「君、もう一晩中ここにいるじゃない。一度家に帰って休みましょう……」

「嫌だ! 姉ちゃんのそばを離れるもんか!」

 少年は嗄れた声で拒絶した。

「姉ちゃんは小さい頃から僕を守ってくれたんだ。今度は僕が守る番なんだ……一人になんてさせられないよ……」

 通りかかった警官が同僚に耳打ちする。

「昨日のひき逃げ事故の被害者遺族だ。弟さんらしいが、昨夜からずっと動こうとしないんだ」

「泣かせる兄弟愛だな」

 もう一人の警官が溜息をつく。

「身寄りは二人だけだったらしい。あの泣き様、見てるこっちまで目頭が熱くなるよ」

 霊安室の前で動こうとしない少年を見て、胸が引き裂かれるようだった。彼の姉は死んだ。けれど弟は一晩中寄り添い、片時も離れようとしない。

 なのに、私の遺体は解剖台の上にあり、悠也は振り返りもせずに去っていった。

 誰もいない廊下に独り浮かびながら、最期の問いが心に浮かぶ。

『もし悠也が、私が本当に死んだと知ったら……どうするだろう? 幼い頃のように、私のために泣いてくれるの?』

 答えを想像するのが怖かった。もしかしたら、彼は私が永遠に消えることを望んでいるのかもしれない。私の死は、彼にとって完全なる解放なのかもしれない。

 それでも、絶望の淵に沈みながら、私は微かな希望にしがみついていた。

 悠也が真実に気づいてくれますように。私を愛してくれたあの頃の彼を、思い出してくれますように。

 たとえ、もう手遅れだとしても。

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