第3章
悠也が怒りに任せて解剖室を飛び出して以来、私は一縷の幽鬼となって法医局の中を彷徨い続けている。
最初の午後、私は悠也が忙しなく他の案件を処理する姿を見つめていた。私の亡骸が、ほんの数部屋先の解剖台の上に静かに横たわっているとも知らずに。
翌日、私は悠也の後ろについて会議室へと足を踏み入れた。各部署からの連続放火事件に関する捜査報告を聞くために。
捜査員たちは次々と首を横に振る。
「第四の放火事件、突破口は依然として見つかりません」
「現場の証拠はほぼ全焼しています」
「被害者の身元確認は難航中です」
ダンッ! と悠也が荒々しくテーブルを叩いた。
「あの変質者はすでに四人の少女を殺しているんだぞ! これ以上、好き勝手させてたまるか!」
私は彼の背後に立ち、身を切られるような思いでそれを見ていた。
もし、その四人目の少女が私だと知ったら……それでもあなたは、そんなふうに憤ってくれるの? それとも今と同じように、私をただの見知らぬ『事件番号』として扱うだけなの?
会議が終わり、立ち去ろうとする悠也を廊下で俊哉が追いかけてきた。その表情には深い憂色が滲んでいる。
「悠也」
俊哉の声は重かった。
「リリが失踪して数日経つ。これは本当にあいつらしくない。お前らが喧嘩したとしても、あいつがこんなふうに姿を消すなんてありえない」
悠也は鬱陶しそうに手を振った。
「あいつは大丈夫だって言っただろ。どうせまたどこかでクスリでもやってるか、新しい男でも見つけたんだろうさ。俺は今、手一杯なんだ。来週には美奈子との婚約パーティーも控えてるし……」
心が、音を立てて砕け散った。私の生死よりも、婚約パーティーの方が大切なのね……。わかっていたことだけど。
俊哉は足を止め、悠也に向き直った。
「おい、俺はお前らを子供の頃から見てきたんだぞ。お前はそんな冷たい人間じゃないはずだ! リリは助けを求めてるんだ!」
「説教なら御免だぜ、俊哉!」
悠也の声が鋭く尖る。
「あいつは自分でそういう生き方を選んだんだ。俺には関係ないし、関わりたくもない!」
俊哉は失望したように首を振った。
「親友として言うが、今のお前は誰だかわからないよ……もしリリに何かあったら、一生後悔することになるぞ」
私は部屋の隅で、声にならない涙を流していた。俊哉の言う通りよ……でも、もう手遅れなの。
オフィスに戻ると、悠也の電話が鳴った。発信者は私の心理療法士、白石先生だ。
「悠也さん」
白石先生の声は穏やかで、しかし気遣いに満ちていた。
「今週、リリさんが治療に来ませんでした。彼女はいつも時間を守っていたし、特に『兄との関係を修復するために治したい』と意気込んでいたのに」
悠也は粗暴にその言葉を遮った。
「先生もそんな言葉を真に受けてるんですか? あいつは息を吐くように嘘をつくジャンキーですよ!」
彼は怒りに任せて通話を切ると、白石先生に脅迫めいたメッセージを送りつけた。
でもね、悠也……私は本当に解剖室で二日間も横たわっているのよ。あなたが婚約パーティーの準備に追われている間もずっと。
その時だった。美奈子が華やいだ様子でドアを押し開けて入ってきた。手には精巧なジュエリーボックスが握られている。
「悠也! 婚約指輪が届いたわ!」
美奈子の瞳は興奮で輝いていた。箱を開け、煌めくダイヤモンドのリングを見せつける。
悠也は嬉しそうに彼女を抱きしめた。
「完璧だ!」
しかし美奈子は、ふいに顔を曇らせた。
「でも……あなたに言わなきゃいけないことがあるの。昨夜、駐車場でリリに会ったわ……」
私は衝撃で思考が止まりそうになった。なんですって? 昨夜? 私はもう二日前に死んでいるのに! この女は嘘をついている……でも、悠也は完全に信じ込んでしまっている。
美奈子はバッグから古びた銀色の腕時計を取り出すと、無理やり涙を絞り出した。
「彼女、この時計を私の足元に投げつけて言ったの。『あんたの家に関わるものなんて、もう二度と見たくもない』って」
彼女はわざとらしく足を持ち上げ、足首の痣を悠也に見せつけた。
悠也は怒りに拳を握りしめた。
「親父の時計だぞ……よくもそんなことを!」
私は絶望に震えた。それはパパが遺してくれた唯一の形見。裏蓋には『To my little star』と刻まれている……。
美奈子、私を殺しただけじゃ飽き足らず、悠也の中にある私の面影まで徹底的に破壊するつもりなの? パパが最後にくれたものまで利用して私を傷つけるなんて……どうしてそこまで残酷になれるの?
ちょうどその時、通りがかった俊哉がその時計を目にし、眉をひそめて足を止めた。
「待て、その時計……」
俊哉は近づき、裏蓋を凝視する。
「美奈子、本当にリリがこれを渡したのか?」
美奈子は緊張した面持ちで頷いた。
「ええ、あの子ったら本当に酷いの」
俊哉は首を横に振った。
「ありえない。リリは毎日片時も離さずこの時計をつけていたんだ。『これをつけていると、父さんが守ってくれている気がするから』って。あいつがこれを捨てるなんて、絶対にありえない」
その瞬間、悠也の携帯がけたたましく鳴り響いた。法医助手からだ。
「悠也さん」
助手の声は張り詰めていた。
「四号遺体の骨格分析が出ました……。被害者は推定22歳、身長167センチ、体重52キロ前後です」
悠也は呆然とした。スピーカーから漏れたその数値を、俊哉も聞いていた。
俊哉の顔から血の気が引いていく。
「待てよ……悠也、そのデータ……」
彼は震える声で言った。
「リリの健康診断の記録と完全に一致するぞ……。前回署に来た時、あいつが随分痩せていたのを覚えてる」
オフィスが死のような静寂に包まれる。悠也の顔は蒼白で、彼は猛然と携帯を掴んだ。
「そんな……そんなはずはない……」
震える指で番号をダイヤルする。
「あいつは電話に出るはずだ……」
息詰まるような沈黙。
その時──。
解剖室の方角から『ムーン・リバー』の旋律が流れ出した。
それは、私の専用着信音だった。
