第4章 服がどうした
藤咲花音は二歩、後ずさった。
記憶が確かなら、昼に桐島征十郎と鉢合わせた時、彼が降りてきたのはこの車だったはずだ。
車が完全に停まるのを待たず、彼女は反射的に背を向けて逃げようとした。
「藤咲様」
車から降りてきた佐々木隆美が、彼女の行く手を阻んだ。
「桐島社長がお呼びです、お乗りください」
桐島家の人間はずっと桐島征十郎を敬遠しており、佐々木隆美は藤咲花音の態度を深く考えなかった。
藤咲花音は車の方向を一瞥した。
「結構です、翔太の戻りを待ちますので……」
先ほどの助け舟には感謝しているが、昨晩の出来事があるため、彼と二人きりになるのはどうしても避けたかった。
佐々木隆美はただ彼女の前に立ちはだかった。
「桐島社長がお話があるそうです」
藤咲花音は唇を噛み、意を決して彼についていくしかなかった。
ドアが開くと、桐島征十郎の無表情な顔が現れた。髪の先から足の裏まで、隙なく洗練された姿だ。
「叔父さん」
藤咲花音は彼が礼儀を重んじることを知っていたので、大人しく挨拶した。
漆黒の髪を低くまとめ、首筋の一部を隠している。白いワンピースの上にカーディガンを羽織った姿は殊勝に見え、車に乗り込むと淡い甘い香りが漂った。
昨日の結婚式で盛装していた花嫁とは、まるで別人のようだ。
桐島征十郎の視線が彼女の顔をかすめ、低い声が響いた。
「翔太は?」
「急用で、先に戻りました」
藤咲花音は答えた。
車がゆっくりと動き出す。逼迫した狭い車内、桐島征十郎のオーラは息が詰まるほど重い。
彼が何を話そうとしているのか分からず、藤咲花音はただ昨晩のことで疑われているのではないかと恐れ、緊張で息を殺していた。
桐島征十郎の立場上、彼女が招惹(しょうじゃく)できる相手ではない。
ましてや、短い接触の中で、彼が骨の髄まで規律を重んじる人間だと見抜いていた。
そんな人が、自分の甥の新妻と関係を持ったと知ったら……。
藤咲花音は彼がどう思うか、昨晩の責任をすべて自分に押し付けるのではないかと不安だった。
桐島征十郎の視線がバックミラーに落ち、この義理の姪が彼から離れて座り、まるで猫を見たネズミのようにドアに張り付いているのを見た。
「私が怖いか?」
彼は理由のない不快感を覚えた。
藤咲花音は彼の感情を察し、口を開いたが、否定の言葉が出てこない。
平時の桐島征十郎でさえ威圧的なのに、今は冷ややかな顔をしている。
彼女の沈黙に、桐島征十郎の顔色はさらに沈んだ。
藤咲花音はまずいと思い、慌てて説明しようとしたが、もう遅かった。
桐島征十郎は彼女から視線を外し、前方を見た。
「君は翔太の新妻だ。二人の間に何があったかは関知しないが、桐島家に入った以上、桐島家の対外的な名誉を守る義務がある。今後、君たちのことが他人の酒の肴になるような話は聞きたくない」
藤咲花音は呆気にとられた。
またしても取り越し苦労だった。
桐島征十郎は昨晩のことを問いただすつもりだと思っていたが、ただ当主として、騒ぎを起こすなと警告しただけだった。
もっとも、彼の口からその言葉が出るのは意外ではなかった。
ただ、少し失望したのも事実だ。
先ほど桐島征十郎は自分の味方をしてくれたのだと思っていたが、単に彼女の手腕がなく、あの場を収められなかったことを疎ましく思っただけだったのだ。
「分かりました」
彼女は頷いた。
女の声が数度低くなり、桐島征十郎は振り返って彼女を見た。
藤咲花音はすぐに感情を整え、彼に微笑みかけた。
「ご忠告ありがとうございます、叔父さん。今後は気をつけます」
桐島征十郎は値踏みするように目を細めた。
車が山の麓に差し掛かる。
藤咲花音は口を開いた。
「叔父さんのお話が済んだのでしたら、ここで降ろしてください。お仕事もおありでしょうし、ここからはタクシーで帰れます」
桐島征十郎が突然口を開いた。
「昨日の夜――」
藤咲花音は頭皮が引きつるのを感じ、掌を爪で食い込ませながら平静を装って彼を見た。
桐島征十郎は言葉を途中で切り、彼女の視線とぶつかると、続く言葉を飲み込んだ。
藤咲花音は桐島翔太の新妻だ。昨晩はもちろん新居にいたはずで、彼が探しているあの女であるはずがない。
「止めろ」
車が停まり、藤咲花音は車を降りて桐島征十郎に別れを告げ、走り去るベントレーを見送った。
山の麓に一人残され、彼女はようやく重荷を下ろしたように安堵の息をつき、再び携帯を取り出してタクシーを呼んだ。
しばらくして、一台のタクシーが彼女の前に停まった。
藤咲花音は乗り込み、タクシーは桐島征十郎とは逆の方向へと走り出した。
途中、小さな薬局を見つけ、藤咲花音は車を降りて中に入った。
「アフターピルは百パーセント避妊できるわけじゃないから、子供が欲しくないなら病院で検査した方がいいよ」
店主は薬を渡しながら注意した。
藤咲花音の心は重く沈んだ。
「分かりました、ありがとうございます」
彼女は店主に水を頼み、その場ですぐに薬を飲み、パッケージを捨てて証拠を隠滅してから、再び車に乗って帰路についた。
藤咲花音は静けさを好むため、桐島翔太はわざわざ都心から離れた場所に別荘を購入していた。
家に着いた頃には、空はすでに薄暗くなっていた。
桐島翔太はまだ戻っていない。
新婚初日、藤咲花音は冷え切った家で一人過ごし、心に隙間風が吹くような寒さを感じていた。
桐島翔太の帰りを待つ間、祖母から心配の電話があり、藤咲花音は笑顔を張り付けてやり過ごした。
夜の八時になってようやく、桐島翔太が慌ただしく外から戻ってきた。
ソファに座る藤咲花音を見て、桐島翔太は少し恨めしそうな表情を見せた。
「花音、どうして帰ったって教えてくれなかったんだ? 実家に迎えに行ったら、もう帰ったって言われて初めて知ったよ」
藤咲花音は彼がいつの間にか着替えている服を見た。
「服はどうしたの?」
桐島翔太は一瞬固まり、口調を変えた。
「新人の秘書がドジでさ、コーヒーをこぼされたんだ」
八年も付き合っていれば、彼の一瞬の後ろめたさが藤咲花音の目から逃れるはずもない。
「花音」
桐島翔太は彼女のそばへ歩み寄り、指の腹で愛おしげに彼女の腕を撫でた。
「これからはこんなことしないでくれよ。帰る途中、俺がどれだけ心配したか分かるか?」
藤咲花音は彼から漂う微かな香水の匂いに、目を閉じた。
「桐島翔太……」
桐島翔太は胸騒ぎを覚え、視線を落とした。
「どうした、花音?」
藤咲花音は彼の視線を受け止め、「離婚しましょう」という言葉がどうしても喉から出てこなかった。
愛し合っていた頃は、本当に一生を託せると思っていた。だが今、彼女は自分がどれほど世間知らずだったかを痛感していた。
彼女には何もない。今離婚して、どうやって生きていく?
祖母は重病で寝たきり、治療費は高額だ。ここ数年、その費用はすべて桐島翔太が負担してくれていた……。
「花音?」
桐島翔太の声が緊張を帯びる。
藤咲花音は我に返り、無理やり冷静さを取り戻した。
離婚は必ずする。ただ、今はまだその時ではない。
目の前の男を見つめ、彼女は辛うじて笑顔を作った。
「なんでもないわ。ただ、新人の秘書に不満があるなら、私があなたの秘書になるのはどうかしら?」
まずは仕事を見つけなければならない。桐島翔太のそばなら、良い経験になるかもしれない。
藤咲花音は過度な要求ではないと思っていたが、桐島翔太の顔色は微妙に変化した。
