第2章
「勝ったとでも思ってるの?」
東京音楽学院から一歩外に出た瞬間、心美は影から忍び寄る毒蛇のように襲いかかってきた。万力のような指で、私の手首を強く掴む。
爪が肌に食い込み、私は思わず苦痛の声を上げた。
「心美、痛い……」
「痛い?」心美は嘲笑い、その瞳に悪意の光を宿した。「三百人以上の前で私に恥をかかせたくせに。それがどれだけ『痛かった』か、あなたにわかる?」
私は彼女の手を振り払い、手首を解放した。肌には深い爪痕がくっきりと残っている。「私はそんな……」
「そんなことない?」心美は一歩近づき、低いながらも刃物のように突き刺さる声で言った。「あなたを笑いものにするための完璧な計画を立てたのに、それを台無しにして……よりによって、市川さんに公然と褒められるなんて?」
彼女の顔が怒りで歪む。「今日のこの日のために、私は三ヶ月もピアノを練習したのよ! 市川さんに注目されるはずだったのは、私だったのに!」
これで、すべてが繋がった。
「オーディションに私を勝手に申し込んだのはあなたじゃない?」信じられない思いで彼女を見つめる。「私に恥をかかせて、そのあと自分の演奏で引き立て役にするつもりだったってこと?」
「素晴らしいわ!」心美はからかうように手を叩いたが、その目はさらに冷たくなっていた。「残念だったわね、楽譜も読めない音楽の素人さんが、私の傑作を台無しにしてくれて!」
彼女はスマートフォンを取り出し、画面の番号を私に見せつけた。「これ、誰の番号だと思う?」
心臓が恐怖で激しく鳴り始めた。
「国立音楽高校の事務局よ!」心美は勝ち誇ったように笑う。「さっき電話して確認したの。鳴瀬葵なんていう学生、在籍記録は一切ないですって!」
全身の血が凍りついた。
「嘘をついたのね、可愛い従妹さん!」心美の目は、残忍な満足感にきらめいていた。「あなたは国立音楽高校になんて通ってなかった! ただの、完全な詐欺師じゃない!」
足ががくがくと震え出す。「心美、あなた、何をするつもり……?」
「市川さんに真実を教えてあげる!」彼女は毒々しく言い放った。「鳴瀬葵っていう天才は、実は楽譜も読めない音楽の素人だって、世間中に知らしめてやるわ!」
「お願い……」私の声は震えていた。「やめて……」
「お願い?」心美は高笑いした。「このチャンスを私が逃すとでも思った? 明日、市川さんがあなたの指導を始める時に、私が直々に電話して全部ばらしてあげる!」
彼女は背を向けて立ち去ろうとしたが、最後にもう一度振り返り、残酷な一撃を放った。「ああ、それと、お父様にはもう叔母さんの医療費を打ち切るように伝えておいたから。詐欺師の家族が、鳴瀬家の慈悲を受ける資格なんてないものね」
そう言い残すと、彼女はハイヒールの音を響かせながら去っていった。学院の正面玄関の階段に、私は崩れ落ちるように座り込んだ。
終わった。すべて、終わってしまった。
崩れ落ちる世界の中で、私は両手で顔を覆った。明日には市川さんの専門的な指導が始まる。心美はいつ、この真実という爆弾を爆発させるかわからない。嘘が暴かれれば、私は笑いものになるだけじゃない――お母さんの最後の治療の機会まで失ってしまう。
その時、突然スマートフォンが鳴った。市川さんからだった。
「葵君! 本当に素晴らしいよ!」彼の声は興奮に弾んでいた。「明日の練習スケジュール、もう組んでみたんだ!」
心臓が激しく脈打つ。「市川さん、実は私……」
「まだ何も言わないで、最後まで聞いてくれ!」市川さんは興奮した様子で私の言葉を遮った。「音楽業界の旧友たちに連絡を取ったら、みんな君のことにすごく興味を持っていてね! 特に田中教授が、君の成績証明書を見たいと言っているんだ!」
成績証明書? 顔面が蒼白になる。
「それから、朝日新聞の音楽担当の記者にインタビューを手配したんだ。君の国立音楽高校での経験について聞きたいそうだ……」
インタビュー? 経験? 息が詰まりそうだった。
「市川さん、今すぐインタビューなんて、私にはまだ……」
「まだだって?」市川さんの声に戸惑いの色が浮かんだ。「どうして? これは信じられないほどの宣伝の機会なんだよ!」
必死で言い訳を探す。「私……準備にもっと時間が必要で……」
「時間?」市川さんの声が真剣なものに変わった。「葵君、なんだか君、何かを隠しているように感じるんだが」
疑われている!
「いえ……本当に、何も……」声が抑えきれずに震える。
市川さんは数秒間黙り込んだ後、こう言った。「明日の朝九時。私のスタジオに来てくれ。真剣に話をする必要がある」
通話が切れ、私は階段に座り込んだまま、天が崩れ落ちてくるような絶望感に襲われた。
その時、背後から優しい声がした。
「鳴瀬さん、大丈夫ですか?」
振り返ると、眼鏡をかけた男性が心配そうな顔で私を見ていた。
「私は音楽療法士、鈴木と申します」彼は自己紹介した。「君がひどく落ち込んでいるようだったので……」
音楽療法士? 私は涙を拭った。「大丈夫です、ありがとうございます」
「今日の鳴瀬さんの演奏は、本当に素晴らしかったです」鈴木先生は私の隣に腰を下ろした。「あの技術……私は二十年間練習してきましたが、あんなにも純粋な音楽表現は見たことがありません」
「本当ですか?」私は涙に濡れた目で彼を見上げた。
「ええ、間違いなく」彼は温かく微笑んだ。「ただ、もし差し支えなければ、一つ質問があるのですが」
心臓がまた喉元まで跳ね上がった。「質問、ですか?」
「鳴瀬さんの演奏技術は明らかに独学――型破りなものです」鈴木先生は私の表情を窺った。「あの循環呼吸や重音奏法は、伝統的な音楽学校で教えるものではありません」
顔が青ざめる。「先生は……私が嘘をついていると?」
「いえ、全く逆です」鈴木先生は首を振った。「真の音楽的才能は、証明書など必要としない、と言いたいのです」
え? 私は呆然とした。
「ご存知ですか」彼は続けた。「偉大な音楽家の多くは独学でした。ベートーヴェンの父親は酔いどれでしたし、バッハは貧しい家の出身でした――多くの者は正式な学校に通ったことすらないのです」
彼は私の目を見つめた。「音楽は卒業証書の中にあるのではありません。音楽は、心の中にあるのです」
その言葉……お父様も同じことを言っていた。
「でも、市川さんたちはとても専門的で。彼らが求める音楽理論なんて、私には何もわかりません……」声が震えた。
「ならば学べばいいです」鈴木先生は微笑んだ。「鳴瀬さんの才能があれば、基礎的な理論を習得するのは時間の問題です。大切なのは、正直であることです」
正直? 私は乾いた笑いを漏らした。「正直になったら、私が国立音楽高校に行っていないことがばれてしまいます。私はただの……」
「ただの何ですか?」鈴木先生は遮った。「ハーモニカ一本で、交響楽団のような音を奏でられる天才、ですか?」
彼は立ち上がり、鞄から名刺を取り出した。「もしよろしければ、私が基礎的な音楽理論をお手伝いします。料金はいただきません――本物の才能は、育まれるべきだと信じていますから」
震える手で名刺を受け取った。「どうして、私を助けてくれるんですか?」
「なぜなら二十年前、私も経歴を偽った音楽学生でしたから」鈴木先生は優しく微笑んだ。「その恐怖と絶望が、私にはわかるのです」
彼は私の肩をポンと叩いた。「鳴瀬さん、覚えておいてください――君の音楽は本物です。それだけで十分。他のことは、これからどうにでもなります」
彼が歩き去るのを見送りながら、私は名刺を強く握りしめた。もしかしたら……まだ希望はあるのかもしれない?
しかし、その時、再びスマートフォンが鳴った。
非通知の番号だった。
「鳴瀬葵さんですか? 朝日新聞の記者ですが、明日、インタビューをさせていただきたく……」
心は再び奈落の底へと沈んでいった。記者、インタビュー――彼らは国立音楽高校での具体的な経験を尋ね、学歴の証明を求めるだろう……。
そして明日の朝九時には、市川さんの疑惑と向き合わなければならない。
さらに悪いことに、心美はいつ、あの真実の爆弾を爆発させるかわからない。
手の中の名刺を見つめる。鈴木先生の言葉が響く。「音楽は、心の中にあるのです」
でも、お父様、もし本当に音楽が心の中にあるのなら、どうして私の心はこんなにも張り裂けそうなの?
夜の帳が下り、私は一人、街を歩いていた。ネオンの光が点滅し、遠くのバーからは音楽が流れてくる。この街は闇の中で歌い続けているのに、私はすべてを失おうとしている。
明日、市川さんが私が基本的な楽譜さえ読めないことを知ったら、どんな顔をするだろう?
明日、記者が国立音楽高校での「素晴らしい思い出」について尋ねてきたら、どう答えればいい?
明日、心美がすべてを暴露するために電話をかけてきたら、私はまだ立っていられるだろうか?
ある楽器店の前で足を止めた。ショーウィンドウには、様々な高価な楽器が飾られている。ピアノ、ヴァイオリン、サックス、ギター……どれも輝いていて、どれも大金に値するものばかりだ。
そして私の手元には、たった750円のボロボロのハーモニカしかない。
このハーモニカは今日、客席から喝采を浴びさせてくれた。けれど明日――まだ私を守ってくれるだろうか?
ハーモニカを唇に当て、誰もいない路上でそっと「アメイジング・グレイス」を奏でた。
これが私の考えうる最も純粋な音楽であり、おそらく、私が自由に演奏できる最後の瞬間だった。
なぜなら、明日になれば、全世界が知ることになるのだから――
天才と謳われた鳴瀬葵は、ただの完全な詐欺師だった、と。







