第5章
午後七時、私は使い古したハーモニカを握りしめ、サントリーホールの楽屋口の前に立っていた。
ここはこの町で最も有名なコンサートホール。いつかここで演奏することを夢見ていた。だが、こんな形ではない――心美の虚栄心を満たすため、影に隠れる見えない道具としてではない。
「来たのね」
闇の中から心美の声がした。彼女は豪華な演奏用のドレスをまとい、まるで女王のように傲慢な態度で立っていた。
「ルールは分かっているわね」と彼女は冷たく言った。「脇の扉から入って、まっすぐ地下二階の機材室へ行きなさい。あなたの立ち位置は、客席からは見えないステージの真下。私が歌う時に、伴奏を提供するの。終演まで一言も喋らないこと、決して姿を見せないこと」
私はハーモニカを強く握りしめた。「もし断ったら?」
「またそういうことを言う?」心美はスマートフォンを取り出し、画面の録音データを見せつけた。「これはさっき、市川さんが国立音楽高校にかけた電話よ。彼らがなんて言ったか、聞きたい?」
全身の血が凍るような思いがした。
彼女が再生ボタンを押すと、市川さんの声がはっきりと聞こえてきた。「……鳴瀬葵さんの在籍情報を確認したいのですが……。え? そのような学生はいません? 確かですか?」
続いて、国立音楽高校の事務局からの返答が流れる。「はい、当学にはそのお名前の記録はございません。それに、音楽療法は卒業を前提とした課程でして……」
録音はそこで止まった。心美は勝ち誇ったように微笑んだ。「これで分かったでしょ? 市川さんはもうあなたが嘘をついていたことを知っている。明日の朝、説明を求めてるわ。今さらどんな言い訳ができると思う?」
世界がぐらぐらと揺れるような感覚に襲われた。終わった。完全に、終わった。
「でも」心美の口調が変わった。「あなたが大人しく協力してくれるなら、助けてあげてもいいわ」
「助けてくれる?」
「私があなたに嘘をつかせたと、市川さんに言ってあげる」彼女の目に、狡猾な光が宿った。「あなたの才能を披露する機会を与えるために、私が国立音楽高校の話をでっち上げたとね。そうすれば、あなたは嘘つきから被害者に変われる」
それは……それは確かに、魅力的な提案だった。
「条件は?」と私は尋ねた。
「簡単よ」心美は鼻で笑った。「今夜から、あなたは私の専属作曲家になるの。私が必要な曲は全てあなたが書く。私が成功すれば、あなたにも価値がある。私が失敗すれば、あなたは無価値よ」
私は目を閉じた。まるで悪魔と契約を交わしているような気分だった。だが、私に選択肢はなかった。市川さんからの信頼はすでに砕け散り、母さんの命は風前の灯火で、父親の秘密だっていつ爆発するか分からない。
「……分かった」
「賢明な判断ね」心美は満足そうに頷いた。「さあ、中に入って演奏の準備をしなさい。忘れないで、あなたはただの道具よ」
地下二階の機材室は薄暗く、窮屈で、至る所にケーブルが這っていた。私は隅にうずくまり、モニター用の機材を通してステージの音を聞いていた。
「皆様、お待たせいたしました!」司会者の声が響き渡る。「ご紹介しましょう、音楽堂レコード期待の新人、才能溢れる鳴瀬心美さんです!」
割れんばかりの拍手。ステージの上で、華やかに輝きながら観客の喝采を一身に浴びる心美の姿が目に浮かんだ。
「今夜は皆様に、私のオリジナル曲をいくつか披露させていただきます」心美の声は甘く、魅力的だった。「最初の曲は『夢追い列車』です」
私の心臓が止まった。『夢追い列車』は、先週私がカフェで書いた曲だった。田舎から出てきた少女が音楽の夢を追いかける歌だ。
彼女は、私の曲を盗んだのだ!
「この曲は、私の音楽への愛と、この偉大な街への感謝を表現しています」心美は続けた。
曲のイントロが始まり、聞き慣れたコード進行が流れてきた。これは間違いなく私の作品だ。だが今や、そこには新しい署名が記されている――鳴瀬心美、と。
イヤーピースから命令が飛んできた。「伴奏を始めろ! 忘れるな、あんたはただの道具だ!」
私はハーモニカを口元へ運び、自分自身の曲の伴奏を始めた。一音一音がナイフのように胸に突き刺さる。私の最も純粋な夢が詰まったこの曲は、今や心美の盗まれた栄光のための道具に成り下がってしまったのだ。
ステージ上の心美の歌唱技術は悪くなかったが、感情が足りないように思えた。私のハーモニカ演奏がその歌に魂を吹き込み、曲全体が心を揺さぶるものへと昇華した。
「素晴らしい!」客席から感嘆の声が上がる。「このハーモニカの伴奏、すごくユニークだ!」
「心美さんの音楽的才能は、まさに天才レベルだ!」
「どうやって歌いながらハーモニカの伴奏までしてるんだ?」
私は苦笑いを浮かべた。観客は心美が超人的な音楽スキルを披露していると思っているが、本当の演奏者が地下の隅に隠れていることなど知る由もない。
最初の曲が終わり、拍手が鳴りやまなかった。
「皆さん、ありがとうございます!」心美はステージ上で謙虚に言った。「次の曲は『折れた翼』。逆境に屈しない不屈の精神を歌った曲です」
また私の曲だ! これは母さんの病状が悪化した夜、絶望の中での葛藤と希望を表現して書いた曲だった。
「始めろ!」イヤーピースから命令が飛んでくる。
私は再びハーモニカを構え、自分自身の感情を奏でた。だが今度は、涙がこぼれ落ちた。私の痛みが心美の才能としてパッケージされ、私の絶望が彼女の芸術の材料にされている。
演奏がクライマックスに達する頃、音楽堂レコードの重役たちの声が聞こえてきた。
「見事だ! 鳴瀬心美の創作能力は驚異的だ!」
「このユニークな音楽スタイルこそ、市場が求めているものだ!」
「すぐに彼女のプロフェッショナルなアルバムを制作しなければ!」
アルバム! 私の曲がアルバムになる。だが、そこに私の名前はない。
終演後、私は指示通りに脇の扉から外に出た。家に帰ると、心美はすでに待っていて、勝ち誇った笑みを浮かべながらシャンパンを手にしていた。
「今夜の公演は大成功だったわ」彼女はグラスを掲げた。「音楽堂レコードの重役たちは、私のデビューアルバム制作に7億5000万円を投資すると決めたわ」
「あれは……私の曲だ……」私の声は囁きのようにか細かった。
「あなたの曲?」心美は大声で笑った。「著作権登録はしてあるの? 作曲の原稿は? あなたがこれらの曲を書いたという証拠が何かある?」
私は言葉に詰まった。楽譜すらまともに読めない私は、自分の創作物を書き留めた記録など一度も持ったことがなかった。
「それに」心美は嘲笑した。「楽譜も読めない人間が、どうしてこんな作品を書けるっていうの? 観客が聞いたのは私の声、私の解釈――当然、私の曲よ」
彼女は私に近づき、脅すような声色で言った。「明日から、毎週二曲ずつ私のために新曲を作ってちょうだい。アルバムを埋めて、創作活動を続けていく必要があるの。あなたは私の音楽工場なんだから」
「もうやらない……」
「やらないって何?」心美は話を遮り、別のスマートフォンを取り出した。「言い忘れてたわ。今夜のあなたの伴奏、全部録音しておいたの。もし協力しないなら、この録音を市川さんに送って、あなたが彼を騙して裏切りながら、他の人間のために働いていると教えてあげる」
彼女の目はさらに悪意を増した。「もっと重要なのは、高橋和人さんの生命維持装置は定期的なメンテナンスが必要だってこと。もしメンテナンス費用に問題が起きたら……」
私は彼女の言わんとすることを理解した。彼女は高橋和人さんに危害を加えると脅しているのだ。
「正気じゃないな!」私は恐怖に満ちた目で彼女を見た。「彼はもう植物状態なんだぞ!」
「だったら、死人になるだけよ」心美は冷たく言った。「どうせ全部あなたの父親のせいなんだから、死ぬのが早いか遅いかの違いでしょ? でも、もし市川さんが、あなたの非協力が原因で師匠が死んだと知ったら……」
彼女が言い終える必要はなかった。その悪辣な論理は理解できた。私が従わなければ、彼女は高橋和人さんの生命維持装置を切り、その責任を私になすりつけるだろう。
私は完全に絶望した。
「明日の朝、市川さんと会うんでしょう?」心美は得意げに言った。「私たちの約束、忘れないで。もし真実を話す勇気があるなら、どうなるか分かっているわよね」







