第5章 過去との別れ
「へえ、そうだったんですか。橘家の五男さんがそんなに妹思いだとは、知りませんでしたわ。私の記憶違いかしら」
青山希はわざとそう言った。橘陸は途端に気まずそうな表情を浮かべ、わずかに怒りを滲ませて彼女を睨んだ。
「青山希、昔のことをいつまでも根に持って、そんなに意地悪く言うのはやめろよ」
「意地悪なのはどちらでしょう。意地悪なだけでなく、ダブルスタンダードでもあるようですけど」
青山希はフンと鼻を鳴らした。前の人生では、彼女はいつも言葉を選び、昔のことはなるべく口にしないようにしていた。しかし、ひとたび橘詩音が告げ口をすれば、橘家の人々は何度も昔の話を蒸し返してきたのだ。
彼女が言えば意地悪で、彼らが蒸し返せば意地悪ではない? まったく笑わせる。
「お姉ちゃん、そんな……」
「やめて。私に家族はもういない。みんな死に絶えたの。兄も妹もいないわ。馴れ馴れしくしないで」
そう言い放つと、青山希はきびすを返して去っていった。残された三人は顔を見合わせる。橘詩音を除き、橘硯と橘陸の顔色は、苦虫を噛み潰したよりもなお酷いものだった。
あの青山希、本当にますますつけあがって。死ねだなんて呪うなんて。
「お姉ちゃん、どうしてあんなことを言うんでしょう。二番目のお兄さんも五番目のお兄さんも、本当に彼女を心配しているのに」
「放っておけ。後で後悔するのはあいつの方だ」
橘硯は表情を和らげ、慰めるように橘詩音の肩を軽く叩いた。
橘陸も頷く。「青山希は小さい頃から構う人間がいなかったから、わがままが染み付いてるんだろう。そのうちどうにもならなくなって、自分の間違いに気づくさ」
橘詩音は頷き、心の中でますます得意になった。三人は談笑しながらオフィスに入っていった。
一方、青山希は車の中で立て続けに二回くしゃみをした。誰が自分の悪口を言っているのか、考えるまでもない。
彼女は気にも留めず鼻をこすると、スマートフォンを取り出して自分のSNSアカウントを開いた。
橘家の人々に引き取られる前、彼女のアカウントや各種広報は、元いた小さな事務所はほとんどノータッチで、すべて彼女自身が運営していた。
橘家の人々に見つかった後、橘家の長男であり、橘エンターテインメントの社長でもある橘時明が、彼女を連れて元の事務所との契約を解除させた。
当時、彼女は橘時明が本当に自分の将来を考えてくれているのだと思い込み、二つ返事で橘エンターテインメントと契約した。ところが蓋を開けてみれば、一年以上経っても、与えられたリソースは前の小さな事務所にいた頃に及ばないどころか、数で言えば半分以下にまで減っていた。
橘硯に至っては彼女を放置同然で、マネージャーはいるにはいるが、いないも同然だった。
彼女が後になってようやく理解したのは、橘時明が彼女を橘エンターテインメントに入れたがったのは、ただコントロールしやすいためだったということだ。彼が社長なのだから、どんな仕事を受けさせようと彼女は従うしかなかった。
結局のところ、すべては橘詩音の道を切り拓くためだったのだ。
そこまで考え、青山希はSNSアカウントのプロフィールを開き、以前橘硯が適当に投稿した書き込みを一つ一つ削除していった。そして、彼が彼女のために作り上げたプロフィール情報もすべて消去し、自分で新たに編集し直した。
橘家の人々には、心から彼女の成功を願う者など一人もいなかった。橘硯が彼女のマネージャーを務めた一年余り、彼はまったく彼女に心を砕かなかった。それとは対照的に、橘詩音はデビューからまだ一年余りだというのに、すでに多くの良質なリソースを手にしていた。
それは彼女の手から奪われたものであったり、橘時明が彼女を売り出すために人脈を使ったり、金を積んで得たものであったりした。
青山希が橘家の人々の本性を見抜いたのは、前の人生の死の間際だった。幸いにも、この人生では、彼女にはやり直す機会がある。
彼女のアカウントには多くの誹謗中傷が寄せられていたが、投稿を削除するにつれて、それらのコメントも一緒に消えていった。空っぽになったアカウントに、彼女はすぐに新しい投稿をした。
『新しい始まり、新しい人生』
まるで涅槃再生を思わせる言葉。それは、まさに今の彼女の心境でもあった。
人生をやり直し、橘家という吸血鬼どもから逃れ、健やかに長生きするのだ。
青山希の投稿が公開されると、すぐにコメントがつき始めた。彼女にはある程度のファンベースがあったが、その大半はアンチファンだった。
特に橘家に引き取られてからの一年余り、彼女に良い作品はまったくなく、あったのはゴシップばかりだった。
彼女と斎藤徹は付き合っていたが、職業柄、公にはしていなかった。ある時、彼女が撮影現場に差し入れに行ったところを、ちょうどパパラッチに撮られてしまったのだ。
当時、斎藤徹が出演していた時代劇が大ヒットしていたが、砂漠地帯で泥にまみれて転げ回るような過酷な環境だった。青山希は彼を不憫に思い、三日にあげず手料理を作って届けた。
クランクアップの日にちょうど顔を出した青山希に、斎藤徹は撮影隊のチャーター機で一緒に帰ろうと提案した。空港から出てくるところで、二人が並んで歩く姿がファンに撮られ、彼女はすぐさまトレンド入りした。
当時、彼女のSNSプラットフォームは炎上し、いくつかの仕事にまで影響が及んだ。それを知った橘時明は彼女をオフィスに呼びつけ、こっぴどく叱りつけた。
青山希は悔しかったが、事の重大さは理解していた。そこで斎藤徹に、記者会見を開いていっそ交際を公表しようと提案した。
斎藤徹はそれを聞くや否や、公表すれば彼女がもっと酷く叩かれるかもしれないと言って拒絶した。青山希は気にしないと伝え、公表すれば彼の好感度アップにも繋がるとまで言った。
当時の彼女は、自分のキャリアよりも斎藤徹を大切に考えていたのだ。しかし、彼が後に自分を裏切ることになるとは思いもしなかった。
その時、斎藤徹は徹底してだんまりを決め込む姿勢を崩さず、青山希はマネージャーの橘硯に助けを求めるしかなかった。しかし返ってきたのは、「ファンが勝手に騒いでるだけだ。数日もすればほとぼりは冷める」という彼の気のない一言だけだった。
橘エンターテインメントは彼女を顧みず、青山希は『売名行為』のレッテルを貼られ、二ヶ月もの間、仕事がない状態に陥った。
橘硯の言っていた『ほとぼり』は半月以上も続き、ようやく少し落ち着いたかと思った矢先、今度は彼女が橘陸の送迎車に乗り込むところを撮られた。
これで彼女は完全に『売名行為』『尻軽』『泥棒猫』のレッテルを貼られてしまった。
その時、青山希は撮影中にワイヤーのトラブルで二メートルの高さから落下していた。それを聞いた橘夫人がスープを作り、橘陸に届けさせたのだった。
その一件で、彼女は橘夫人が自分のことを心配し、気にかけてくれているのだと思い込んだ。だからニュースが出た時も深く考えなかったが、後になって知った。橘夫人が作ったスープはもともと橘詩音のためのもので、彼女はついでだったのだと。
橘陸もたまたま病院の近くを通りかかっただけで、わざわざ見舞いに来たわけではなかった。
案の定、橘陸は斎藤徹と同じように何も言わず、態度を表明せず、説明もしないという姿勢で、世論が燃え広がるのを放置した。
だから青山希のリソースはますます乏しくなり、世間での評判もどんどん悪化していったのだ。
対照的に、橘詩音はデビューからまだ一年余りにもかかわらず、立て続けに何本もの大物監督のドラマに出演していた。
ある時、新作ドラマの制作発表会で、橘硯は橘陸を伴って公の場で彼女を応援し、大きな話題をさらった。
当時、ネット上では二人の関係を巡る憶測が飛び交い、青山希のアカウントには彼女が振られたと嘲笑するメンションが殺到した。何を言われているのかわからないほどで、彼女のSNSプラットフォームにまで来て『恥知らず』と連投する者さえいた。
世論が何日も燃え盛り、話題性が十分高まった頃合いを見計らって、橘陸はようやく釈明に立った。橘詩音は自分の妹である、と。そして青山希については、二人は恋人関係ではない、とだけ言い、それ以外は何も語らなかった。
橘家の人々の青山希と橘詩音に対する態度は、火を見るより明らかだった。
その一件で、彼女は橘家を出ることを考え始めた。だが、決心する前に、死んでしまった。
そこまで思い出し、青山希は奥歯を噛み締めた。もう二度と、誰に対しても情けをかけたりしない。この世に、理由もなく自分に良くしてくれる人間などいるものかと信じたりしない。
これからは何事においても、自分を第一に考える。自分の利益を貪ろうとする者、自分をいじめようとする者は、全員まとめて消え失せろ。
