第1章
レノン視点
キッチンに立ち続けて、もう三時間になる。ステーキは完璧なミディアムレアに焼き上げ、アスパラガスのローストも申し分ない仕上がりだ。そしてカウンターの上には、カラムの大好物であるフォンダンショコラが冷まされている。これを成功させるために、ユーチューブの動画を二回も見直さなければならなかった。
五年。五年前の今日、私たちは市役所で婚姻届を出し、ダウンタウンにある小さなメキシコ料理店でタコスを食べて祝った。あの頃は二人とも文無しだったけれど、カラムが言った言葉は今でも覚えている。「成功したら、世界中を君にプレゼントするよ」今、彼は成功を手にした。けれど私が欲しいのは、ただの夕食だけ。
私はネイビーのドレスに袖を通す。カラムが「君の瞳が一番きれいに見える」と言ってくれた一着だ。キャンドルに火を灯し、まるで雑誌の特集ページのようにテーブルをセッティングする。スマホはマナーモードに。今夜は、二人きりの時間になるはずだから。
七時。カラムは六時半には帰ると言っていた。冷めないようにステーキにアルミホイルを被せる。七時十五分。メッセージを送る。「どこにいるの?」七時三十分。既読がついた。返信はない。
ワインをグラスに注ぎ、パニックになるなと自分に言い聞かせる。彼は最近忙しいのだ。会社は新しいアルバムの発売準備に追われている。わかってる。いつだって私は理解ある妻だった。その時、スマホの画面が明るくなった。カラムからの返信じゃない。プッシュ通知だ。「スターリング・レコード記念コンサート――ライブ配信中!」画面の上で、指が三秒間止まる。そして、タップした。
ステージは照明で眩いほどに輝いている。その中央にカラムが立っていた。私が選んだチャコールグレーのスーツを着て。マイクを握り、カメラに向かって微笑んでいる。
「今夜はスターリング・レコードにとって特別な夜です」彼が言う。「私たちのニューアルバム『エコーズ』が、たった今グラミー賞にノミネートされました」割れんばかりの拍手が巻き起こる。私はソファの上で凍りついた。お祝い? 彼はお祝いの席に行っているの? 今日は、私たちの結婚記念日なのに。
「このアルバムはチーム全員の努力の結晶です」とカラムは続けた。「でも、その全てに魂を吹き込んでくれた、特別な人がいるんです」心臓が早鐘を打つ。もしかして、カメラの前で私に感謝を伝えようとしている? ついに、あの曲を書いたのが私だと認めてくれるの?
「迎えてください。スターリング・レコードのクリエイティブ・ディレクター」彼は手を差し伸べる。「セレスト・モンロー!」ブロンドの女性がステージに滑り出てくる。赤いドレス。完璧な笑顔。カラムが彼女を抱き寄せる。仕事上のハグじゃない。彼の手が彼女の腰に回される。そのまま、三秒間もしっかりと。
「セレスト」カラムは彼女の顔をじっと見つめながらマイクに向かう。「君こそが、このアルバムの真のミューズだ。君がいなければ『エコーズ』は生まれなかった」彼女は満面の笑みでマイクを受け取る。「これは、私たちの二人の功績です――」
私は動画を閉じた。手が震えている。グラスからワインがこぼれ、ネイビーのドレスに広がっていく。まるで血のシミのように。
五年。この五年間で、彼のために何曲書いた? 二十三曲だ。チャート入りした曲が二十三曲。オリジナルのデモ音源は全て私のノートパソコンに入っている。手書きの歌詞もノートに残っている。それなのに、著作権クレジットはいつも「スターリング・レコード」。「私たちの」と彼は言った。「二人の功績」と彼女は言った。
私は車のキーを掴んだ。
スピードを出しすぎているのはわかっている。黄信号を突っ切り、タクシーと接触しそうになる。でも、行かなきゃ。彼に直接問い詰めなければ。どうして忘れることができたのか。よりによって今日という日に、どうして。
会場はダウンタウンのライマン・オーディトリアムだ。高級車が通りに列をなし、レッドカーペットの周りにはカメラマンたちが群がっている。私は裏口を見つけた。だが、警備員が立ちはだかる。
「申し訳ありません、お客様。今夜は貸切でして」
「私はカラム・スターリングの妻です」
彼は私を上から下までジロジロと見る。その視線が、ドレスについたワインのシミに留まる。
「招待状はお持ちでしょうか?」
「招待状なんていりません。私は彼の妻なのです――」
「バックステージに入るにはパスが必要です」彼は淡々と言った。「例外はありません」
私は息を呑み、スマホを取り出してカラムに電話をかける。出ない。もう一度かける。やはり繋がらない。
「お客様、パスをお持ちでない場合は、申し訳ございませんがご入場をお断りさせていただきます」
彼の手が、腰の無線機に伸びた。
その時、楽屋口のドアが開いた。カラムとセレストが出てくる。二人の距離は近い。彼女は声を上げて笑い、を彼の肩に置いていた。
「あの曲、私の名前を入れるべきだったわ」彼女が揶揄うような声で言う。「だって、あれを書いてる時、私のことを考えてたんでしょ?」
カラムが笑う。「セレスト……」
「本気よ」彼女は手を伸ばし、彼の頬に触れる。その親密すぎる仕草に、胃の奥がせり上がるような感覚を覚えた。「クレジットに『スターリング・レコード』としか書かれていないのを見るたび、不公平だなって思うの」
「著作権の仕組みは知ってるだろ」カラムは言うだけで、彼女の手を振り払おうとはしない。「会社の曲はすべてそういう表記になるんだ」
「レノンの曲も?」彼女の口から出る私の名前は、まるで冗談か何かのようだ。
「レノンはもう、そういうことは気にしてないよ」カラムの声に、わずかに苛立ちが滲む。「あいつは家で曲を書くことに集中してるんだ。こういう社交的な場は嫌いだからな」書くことに集中している。社交的な場が嫌い。それは彼として作った「ペルソナ」だ。真の私じゃない。
彼を呼び止めようと口を開きかけた。けれど、声が詰まる。セレストが背伸びをして、彼の耳元で何かを囁いたからだ。カラムが笑う。ここ数ヶ月、私が一度も聞いていない、リラックスした心からの笑い声。そして二人はきびすを返し、中へと戻っていった。ドアが私の目の前で閉ざされる。
警備員が私を見る。「お客様、お引き取りください」私は駐車場へと向き直った。足が鉛のように重い。
どれくらい車の中に座っていたのかわからない。スマホの画面が光る。カラムからのメッセージだ。「今夜はごめん、仕事だった。明日は埋め合わせするよ」仕事、か。
呆然としたまま車を走らせて帰宅した。ステーキは冷めきっている。キャンドルは燃え尽きた。フォンダンショコラは自らの重みで無惨に潰れている。私はすべてをゴミ箱に放り込んだ。そしてノートパソコンを開き、五年前の動画を探し出した。
イースト・ナッシュビルのバーにある小さなステージ。ギターを抱え、自分で書いた曲を歌う私。客は二十人ほどしかいない。でも、彼らは皆、聴いている。真剣に聴き入っている。画面の中の私は目を輝かせ、心から笑っていた。まるで別人のようだ。
午前二時、玄関の鍵が開く音がした。カラムが足元をふらつかせながら入ってくる。酒の臭いが充満している。ネクタイは曲がり、上着を腕に引っ掛けていた。ソファにいる私を見て、彼は動きを止める。
「まだ起きてたのか?」
「今日は結婚記念日だったのよ」私の声は落ち着いていた。
彼の顔にパニックが走り、すぐに苛立ちへと変わる。「レノン、今夜が会社にとってどれだけ重要か知ってるだろ。グラミー賞のノミネートだぞ……俺たちが五年間目指してきたものじゃないか」
「結婚記念日だったの」
「ただの日付だろ」彼は上着を椅子に放り投げた。「お祝いなんて別の日でもできる。どうして君はいつもそうやって――」彼は言葉を切る。
「そうやって、何?」
「なんでもない」彼はこめかみを押さえる。「酔ってるんだ。話は明日にしよう」
「何を言おうとしたの?」私は立ち上がった。「言って」
「やめろ、レノン――」
「言いなさいよ!」
「理不尽すぎるんだよ!」彼は振り返り、ついに爆発した。「俺がどれだけのプレッシャーを背負ってると思ってる? 会社、投資家、新しいアルバム……毎日何百もの案件を処理して、家に帰れば君のこの騒ぎだ。セレストならこんな真似は絶対にしない。彼女はキャリアを持つことの意味を、優先順位というものを理解してる――」空気が凍りついた。彼は自分が何を口走ったのか悟ったようだ。
「レノン……」
「出て行って」
「そういうつもりじゃ――」
「出て行け!」私は叫んでいた。「今すぐここから消えて!」
彼は数秒間私を見つめ、バタンとドアを閉めて出て行った。車のエンジンがかかり、タイヤが道路を軋ませる音が聞こえる。そして、静寂が訪れた。
私は床に崩れ落ちた。ノートパソコンの画面はまだ光っている。五年前の私が、まだ歌っている。愛を、音楽を、そしてカラム・スターリングを信じていたあの少女。私は手を伸ばし、動画を閉じた。画面が暗転するその一瞬、自分の顔が反射して見えた。疲れ切った顔。虚ろな目。見知らぬ他人。彼女はいつ消えてしまったんだろう? バーで歌っていたあの少女は。もう、思い出せない。
