第1章
山崎絵美視点
妊娠検査薬には、くっきりと二本の線が浮かび上がっていた。
それを持つ私の手は、歓喜からか、あるいは恐怖からか、微かに震えている。主寝室に併設されたバスルームの、肌を滑るような琥珀色の光の下で、私は小さなプラスチックのスティックを凝視し、胸に渦巻く感情の奔流にただ耐えていた。
まだ平坦な自身の下腹部をそっと撫で、囁きかける。
「赤ちゃん……あなたが来てくれたら、すべてが変わるのかしら」
三年。冷え切った結婚生活を、三年。夫に無視され続けた、三年。この小さな命が、私たちの関係を溶かす一縷の望みになるかもしれない。
私はその小さな希望の証を大切にしまい、今夜の準備に取り掛かった。
午後の時間のすべてを、この特別なディナーのために費やした。
テーブルには上品な白い花のブーケと磨き上げたクリスタルのグラス。セラーから出したフランス産の赤ワインに、庄司が何よりも好む黒毛和牛のステーキ。落ち着いた間接照明と季節の花々で、リビングダイニングの隅々まで完璧に整えた。
数ヶ月前、銀座のデパートで庄司が一度だけ褒めてくれた藍色のワンピースに着替え、鏡の前で何度も言葉を練習する。
「庄司さん、あなたに素敵な知らせがあるの……」
「私たちに、赤ちゃんができたのよ……」
「この子が、私たちの関係を……」
『もう、なんでこんなに緊張してるの』
鏡の中の自分に、思わず苦笑が漏れる。手のひらはじっとりと汗ばんでいた。人生で最高の知らせのはずなのに、まるで告白を控えた少女のようだ。
やがて、階段から聞き慣れた足音が響いてくる。私は急いでダイニングテーブルのそばに立ち、深く息を吸い込んで昂る気持ちを鎮めた。
戸口に、夫である庄司が姿を現す。
今夜の彼は、いつもよりずっと素敵に見えた。チャコールグレーのシャツが鍛えられた体躯を際立たせ、この三年間、私を虜にしてきた端正な顔立ちが、柔らかな光の中で蠱惑的な光を放っている。
「これは……どうしたんだ」
彼は入念に整えられたテーブルを一瞥し、その声に隠せない驚きを滲ませた。
「たまには、ちゃんとしたディナーもいいかなって」私は努めて声を弾ませる。「私たち、こうしてゆっくり話すのも久しぶりでしょう」
驚いたことに、庄司は無言で歩み寄ると、私のために椅子を引いてくれた。その紳士的な仕草に、私は息を呑む。この三年間、彼がこんな優しさを見せたことなど、ただの一度もなかったからだ。
「今夜は俺からも話があるんだ」
私の向かいに腰を下ろした彼が、低い声で言った。
「俺たちの、未来についてだ」
心臓が、大きく跳ねた。私たちの、未来……?
彼が私のためにワインを注ぐ仕草を、夢見心地で見つめる。説明のつかない甘い感情が胸に込み上げてきて、この瞬間の彼はとても身近に感じられた。まるで、本当に愛し合う夫婦であるかのように。
「庄司さん」私は勇気を奮い起こし、ワイングラスを握りしめた。「私からも、大事な話があるの……」
けたたましい電子音が、突然室内の空気を切り裂いた。
庄司はテーブルの上のスマートフォンに目を落として眉をひそめ、次の瞬間、その顔からさっと血の気が引いていく。
「亜里亜……」
彼が囁いた名前に、私の心臓は氷水を浴びせられたように凍りついた。
『やめて。お願いだから、今だけは。彼女の名前を呼ばないで』
「何があったんだ」庄司は我を忘れたように電話に出る。「怪我? どこの病院だ!」
私は凍りついたように椅子に座り、彼の顔に浮かぶ焦燥とパニックを見つめていた。見慣れた、あの感覚。世界からたった一人、置き去りにされるような絶望が、再び私を打ちのめす。三年前の結婚式の夜のように。彼が彼女からの電話を受ける、あの数え切れない夜のように。
彼の瞳が物語っている。あの女に、私が敵うはずなんてないのだと。
「今すぐ行く!」
彼は電話を切り、私を一瞥もせずにジャケットを掴んだ。
「絵美、すまないが行かなきゃならない。亜里亜が襲われたらしい……ひどい怪我なんだ……」
私はただ、彼の慌ただしい後ろ姿を見つめていた。
三年前、森本亜里亜は両家の政略結婚によって、庄司と結ばれるはずだった。だが彼女は式の直前に庄司と大喧嘩の末、己のキャリアを追い求め、身勝手に海外へ飛び立った。それでも両家の約束は果たされなければならず、森本家は代わりの花嫁を用意する必要に迫られた。そして、投資の失敗で莫大な借金を抱えていた父を持つ私が、その身代わりとして、この男のもとへ嫁ぐことになったのだ。
誰もが、庄司が森本亜里亜だけを愛していると知っていた。それでも私は妻として彼に尽くし、献身的に支え続けた。少しずつ、私たちの関係は雪解けを迎えているように思えた。そして二ヶ月前、酔って帰宅した彼と、私たちは初めて……本当に初めて、夫婦として結ばれた。すべてが、良い方向へ向かっていると信じていたのに。
『なんて、愚かなんだろう、私は』
「庄司さん」
思わず、呼び止めていた。
彼はドアノブに手をかけたまま、苛立ちを隠しもせずに振り返る。
「さっき、言おうとしていたこと……」
私は立ち上がり、ドレスのポケットの中で妊娠検査薬を固く握りしめた。
「何だ」
その声には焦りが滲み、一刻も早く病院へ駆けつけたいという苛立ちが透けて見えた。
彼の目に宿る焦燥を見つめる。それは、決して私に向けられることのない熱量だった。
「……なんでもないわ」私は力なく笑って首を振った。「大したことじゃないから」
「できるだけ早く戻る」
その言葉だけを残し、彼は二度と振り返ることなく駆け出していった。
バタン――。
玄関のドアが、心臓を鷲掴みにするような轟音を立てて閉まった。
明かりの灯るダイニングルームに、私だけが取り残される。丁寧に準備したディナーと、まだ湯気の立つ二つのステーキを見つめ、静かに息を吐いた。
当然だ。いつだって彼女が、私より大事なのだから。
三年の忍耐、三年の献身、三年の自己欺瞞。そのすべてが、森本亜里亜がこの街に帰ってきたという、ただそれだけの事実で脆くも崩れ去った。
すべてが好転していると思っていた。彼が、私という存在を認め始めてくれたのだと。だが、森本亜里亜の帰還が、これほどまでにあっさりと私たちの時間を過去のものにするとは、思いもしなかった。
私はゆっくりとテーブルに歩み寄り、彼の席の横に、そっと妊娠検査薬を置いた。柔らかな照明が、そこに浮かぶ二本の線を照らし出す。それはまるで、私の儚い夢のために立てられた、小さな墓標のようだった。
自分のお腹を優しく撫で、自嘲の笑みが浮かぶ。
「ねえ、赤ちゃん。どうやらお父さんには、私たちよりずっと大事な用事ができたみたい」
一度言葉を切り、さらに小さな声で続けた。
「あなたには是非……」
言いかけて、私は首を振る。
「ううん、やっぱりお父さんに似た方がいいわね。これは、あなたが背負うべき重荷じゃないもの」
私は部屋の照明を消し、美しいはずだったディナーのすべてを闇に沈めた。
暗闇の中、結婚式の夜に庄司が放った言葉が蘇る。
『俺と結婚したからといって、勘違いするな。俺の心は永遠に亜里亜だけのものだ。お前はただの身代わり……未来永劫、身代わりでしかない』
三年間、私は自分が身代わり以上の存在であることを、必死に証明しようとしてきた。
けれど今、ようやく悟ったのだ。
決して、変わることのないものもあるのだと。
私は彼の妻ではあるけれど、彼の心を、この手に入れることは永遠にないのだろう。







