第1章
体外受精から半月後、医師からついに妊娠の知らせをいただいた。
私は逸る気持ちを抑えきれず、この吉報を黒木琉生に伝えようとした。
だが、二階の個室の前まで来たとき、中の話し声が耳に入ってきた。
「黒木様、やはりお見事でございます! 二年前のあの婚約披露宴での仕込み、完璧でしたね」
部下がへつらうような笑みを浮かべて言った。
「薬を盛って、情事の現場をでっち上げ、小林家から小林美晴を追い出させる。天野の若様はすぐさま小林美月さんと婚約……あのお嬢様、自分の純潔に責任を取ってくれるんだと信じ込んで、まあなんと可愛らしいことでしょう」
階段に足をかけたまま、私は凍りついた。
その、小林家を追い出された「お嬢様」というのが、私――小林美晴だ。
二年前。小林家と天野家の婚約披露宴で、私は何者かに薬を盛られ、意識が朦朧とする中で黒木琉生と関係を持ってしまった。それを両親と天野晴彦に目撃されたのだ。
父は激昂して絶縁を宣言し、天野晴彦はその場で妹の小林美月へと乗り換えた。
唯一、黒木琉生だけが私を抱きしめ、責任を取って妻にすると言ってくれたのに。
「当時は誰もが、なぜあのような女と結婚するのかと首を傾げましたが……まさか美月お嬢様がお子様に恵まれないと分かった今、姉である彼女に跡継ぎを産ませるとは。恐ろしいほどの計算ですね!」
「天野の若様も、その能力だけは優れているらしいです。すぐに身ごもられました」
黒木琉生の声は淡々としていたが、そこには確かな優越感が滲んでいた。
「子供が生まれれば、美月も天野家での地位を盤石にできるだろう」
瞬間、世界が音を立てて崩れ落ちた。
私のお腹の中にいる子は……義理の弟の子だというの?
「女なんてのは、少し優しくすれば簡単に騙せる」
黒木琉生は続けた。
「天野晴彦が欲しいのは小林家とのパイプだ。美月が産めないなら、姉に産ませればいい。どうせ同じ小林と天野の血だ、母親が違おうが関係ない」
視界が涙で歪む。私は逃げるように踵を返した。
「姐さん?」
酒を運んできた若い組員が階段を上がってきて、立ち尽くす私を見て目を丸くした。
個室の会話がピタリと止む。
次の瞬間、ドアが勢いよく開かれた。
大股で出てきた黒木琉生の視線が、涙に濡れた私の顔を捉えた。
彼は目を細め、怪訝そうに尋ねた。
「美晴? なぜ泣いている」
二年連れ添えば分かる。彼は疑り深い男だ。
会話を聞かれたのではないかと疑っている。
私は咄嗟に嘘を吐いた。
「さ、さっき上がってくるときに人とぶつかって……足を挫いちゃって」
「我慢しようと思ったんだけど、でも……」
唇を噛み締め、涙を流しながら訴える。
「すごく、痛くて」
黒木琉生の瞳が暗く沈んだ。
「そんなに痛むのか?」
彼が近づいてくる。後ずさりしたい衝動を必死に抑え、私はその場に踏み止まった。
次の瞬間、身体が宙に浮く。お姫様抱っこだ。
「行くぞ。誰がぶつかったのか顔を見せろ」
彼は私を抱いたまま階段を下りていく。一階のホールで談笑していた客たちは慌てて道を開け、数十人の組員たちがすぐに周りを囲んだ。
「俺の女にぶつかったのはどいつだ」
氷のように冷徹な黒木琉生の声が響き渡り、会場は瞬時に静まり返った。
心臓が早鐘を打つ。
誰でもいい。どうせこの結婚自体が嘘で塗り固められたものなのだ。今さら嘘が一つ増えたところで何だというのか。
私は震える指を上げ、人混みの中にいた若い組員を指差した。
男の顔色が瞬時に蒼白になる。
「く、黒木様、俺はそんなこと……」
黒木琉生は片手で懐から拳銃を抜くと、その黒い銃口を男の頭に向けた。
客たちが悲鳴を上げて後退るが、誰一人として逃げ出そうとはしない。
「やめて!」
私は彼の腕にしがみつき、銃口を下げさせようとした。
「もういいの、たぶん私が不注意だっただけだから……」
「美晴」
黒木琉生が私を見下ろす。毒蛇のような危険な眼差しだ。
「やられっぱなしで引き下がるなんて、俺の女らしくないな」
身体が強張った。
彼は私を床に下ろすと、その手に拳銃を握らせた。
「こいつがやったと言うなら――君が殺せ」
冷たい鉄の感触が掌に張り付く。
震えが止まらない。
耳元に彼の吐息がかかる。それはまるで毒蛇の威嚇音のように、耳を打った。
「なぜ撃てない? まさか、俺に嘘をついているのか?」
