第1章
廊下に低い泣き声が響く。隣のベッドの患者の家族が、交代で夜伽をしているのだ。一方、私のベッドの傍らでは、冷たいモニターの電子音が時を刻むだけだった。
私の名前は藤原千尋。名の知れたライトノベル作家で、かつては運命に翻弄されるヒロインを幾度となく描いてきた。
まさか今度は、自分の番になるとは思ってもみなかった。
アメリカの病院のベッドに横たわり、どんなフィクションよりも荒唐無稽な現実を味わっている。
数ヶ月前、私の身体に突然異変が起きた。初めは時折胃が痛む程度で、風土病か何かだと思っていた。
しかし病状は悪化の一途をたどり、軽い不快感だったものは今や激しい痛みに変わった。医師は直ちに手術をしなければ命に関わると言う。
私は震える手でスマートフォンを手に取った。画面には東京時間、午前2時と表示されている。
深呼吸をして、兄の番号をダイヤルした。
「もしもし?」
大志の声は疲労を滲ませていた。
「お兄ちゃん……」
自分でも聞き取れないほどか細い声で、私は言った。
「もう、本当に無理……。すぐに日本に帰って手術を受けなきゃ」
電話の向こうは数秒間沈黙し、それから冷ややかな嘲笑が返ってきた。
「数ヶ月も演じてまだ足りないのか? よりによって璃乃の結婚式の前に『危篤』になるわけか? 千尋、お前のその高嶺の花の帰還劇には、もう騙されないぞ」
「演技なんかじゃない!」
私は泣き出しそうになるほど必死だった。
「先生が、すごく危険な状態だって。早く手術しないと、本当に——」
「死ぬってか?」
大志は私の言葉を遮った。その声には皮肉が満ちている。
「璃乃がこの結婚式のためにどれだけ準備してきたか知ってるだろう? あの子を静かに雅人さんの元へ嫁がせてやれないのか?」
「結婚式を壊すつもりなんてない!」
私は必死に説明した。
「お兄ちゃん、小さい頃、一生私を守るって言ってくれたの、覚えてる? なのに、どうして急にこんな風になっちゃったの。妹が死の危機に瀕してるっていうのに」
私の声は掠れ、言葉にならない悲しみが胸に満ちた。
「あの頃は、お前がどれだけ演技が上手いかなんて知らなかったからな」
大志の言葉がナイフのように心を突き刺す。
「千尋、もう芝居はやめろ。帰ってきてもいい。だが、今じゃない」
主治医のウィリアム先生がこちらへ歩いてきて、私の苦痛に満ちた表情を見て、電話を受け取ろうと手を差し出した。
「患者のご家族の方ですか?」
ウィリアム先生は英語で話した。
「妹さんの病状はあまりに長く放置されすぎています。これ以上手術を遅らせれば、本当に死んでしまいますよ! 彼女の胃の状態は、我々の予想を上回る速さで悪化しているんです」
大志は冷笑した。
「先月は胃穿孔、その前は胃出血でしたか。ドクター、あなた方の診断を統一していただけませんか?」
ウィリアム先生は憤慨した。
「ミスター、それらは全て病状の進行段階が違うだけです! あなた方は本当に彼女の家族なのですか!」
兄は少し心が揺らいだようだったが、それも束の間だった。
電話口から別の声が聞こえてきた。父の声だ。
「大志、どうした?」
「父さん、千尋がまた危篤の芝居を打ってる」
大志は手早く報告する。
「璃乃の結婚式の前に帰国して、めちゃくちゃにする気なんだ」
「千尋」
父の声は厳格で冷たかった。
「璃乃がこの数ヶ月、結婚式のためにどれだけ準備してきたか分かっているのか? この肝心な時に帰ってくれば、彼女がただの身代わりだったことを皆に思い出させることになる。お前はそんな酷いことができるのか?」
身代わり。その言葉が毒蛇のように私の心を噛んだ。
彼女と彼女の母親は、私の母に似ているからこそ受け入れられたのではなかったか。なぜ父は今、そんなにも当然のように言うのだろう。
「誰の人生も邪魔するつもりなんてない!」
私は泣きながら叫んだ。
「ただ、生きたいだけなの!」
「もういい」
父は冷たく言った。
「璃乃の結婚式が終わってからにしろ」
ツーツーツー……。無機質な音が響き、電話は切られた。
私は呆然とスマートフォンの画面を見つめ、涙が止めどなく流れた。
この数ヶ月、助けを求めるたびに演技だと思われ、苦痛の呻き声を上げるたびに、何かを企んでいると見なされた。
彼らの心の中で、私は一体何なのだろう?
私は彼らの娘であり、妹ではないのか。家族ではないのか。
彼らの家族は、璃乃だけなのだろうか。
「このまま諦めるわけにはいかない」
私は拳を握りしめ、爪が掌に食い込んだ。
「私の描いたヒロインは、決して座して死を待ったりしない。私も、そうじゃなきゃ」
ヒロインが死んだ後で周りが後悔するなんていうお決まりの展開は、見るのも書くのも好きじゃない!
私に必要なのは、ただ生き延びることだけ!
私は無理やり身体を起こし、各国の名医に連絡を取り始めた。
イタリアの専門家、ドイツの権威、フランスの外科の大家……どの返答も、同じ結論を示していた。
「藤原さん、あなたの現在の病状では、あなたの国の山本先生にしか救えません」
ドイツの専門家がビデオ通話で言った。
「しかし、あなたの状態はあまりに長く放置されすぎています。直ちに帰国しなければ。我々が国外へ出て手術することは不可能です」
山本先生からの返信は、さらに直接的だった。
「もってあと3日から5日。それを超えたら手遅れです。私は家庭の事情で出国を制限されており、あなたがすぐにこちらへ来るしかありません。こちらで可及的速やかに手術を手配します」
しかし、帰れない。
私のパスポートはとっくに取り上げられ、さらには兄と父がよこしたボディガードに見張られている。だから今、帰りたくても帰れないのだ。
そのボディガードたちも、璃乃に買収されてしまっている。兄が電話で私の様子を尋ねているのを聞いたが、彼らは口を揃えて私が病気ではないと報告していた。
ウィリアム先生も焦燥感を募らせ、何としてでも早く日本に帰るようにと私に告げた。
私は目を閉じ、涙がこぼれるのを堪えきれなかった。
為す術のない先生は、ふと何かを思いついたように興奮した声で言った。
「それなら、あなたを高嶺の花だと思っているあの社長に連絡を取っては? 彼があなたを必要としているなら、帰国することくらい簡単でしょう?」
雅人さん?
でも、彼は私のことなど高嶺の花だなんて思っていない。
私は力なく笑って首を振った。
「もし私が本当に彼の高嶺の花なら、この数ヶ月、とっくにお見舞いに来てくれているはずです」
だが、雅人さん以外に、私の前にはもう道は残されていないようだった。
私は震える手で、連絡先の奥深くに埋もれていたその番号を呼び出した。
指を発信ボタンの上で彷徨わせ、私は目を閉じた。
彼は、どうするだろうか?
