第2章

私の指は雅人の番号の上で、まるまる五分間もさまよっていた。

病室の点滴の管がぽた、ぽたと音を立て、その一滴一滴が時間の経過を私に告げている。

けれど、私に残された時間はもうほとんどない。

深く息を吸い込み、私は通話ボタンを押した。

トゥルル……トゥルル……

「もしもし?」

雅人の声が聞こえる。少し騒がしく、背後からは音楽が流れていた。

「雅人……」

私の声は蚊の鳴くようにか細い。

「私、千尋」

電話の向こうは数秒間沈黙し、それから低い笑い声が漏れた。

雅人の声には、明らかな嘲りが含まれている。

「何の用だ?」

そう、何の用だろう。

この態度からして、彼が助けてくれるはずがない。電話を切ろうとしたその時、ウィリアム先生が突然スマホをひったくった。

「千尋は君の高嶺の花だったんだろう?保証してくれないか。彼女が帰国しても、君があの身代わりを捨てないと彼女の家族に伝えてくれ。彼女は今、君のせいで帰国できないんだ」

雅人は冷たく笑った。

「高嶺の花、ね。よくもまあ、そんな嘘が言えたもんだ」

スマホを握る私の手は震え、唇は白くなる。

「もういい」

私は声を詰まらせて言った。

「恥の上塗りはしたくない」

ウィリアム先生が怒りを露わにした。

「君は男か!彼女は手術を受けなければ死ぬんだぞ。この手術はアメリカでは誰も引き受けられない。君たちの国の山本先生が執刀してこそ、彼女は助かるんだ。だが、彼女の家族は君が結婚相手を捨てるんじゃないかと心配して、帰国を許さない。時間がないんだ、今すぐ同意しろ!」

そうよ。私が彼の高嶺の花じゃないなら、はっきりさせてほしい。そうすれば私も国に帰って治療が受けられるのに。

電話の向こうから、はっきりと結婚行進曲が聞こえてきた。

私の心臓が、ずしりと沈む。

「雅人~」

甘ったるい女の声が電話口で響く。

「誰と電話してるの?牧師様が、誓いますかって聞いてるわよ~」

璃乃の声だ。

続いて、荘厳な男性の声が聞こえてきた。

「黒木雅人さん、あなたは橘璃乃さんを妻とし、貧しい時も、富める時も、病気の時も、健やかなる時も、彼女を愛し、慈しみ、誠実を尽くすことを、死が二人を分かつまで誓いますか?」

私の血が、まるで凍りついたかのようだ。

彼は、結婚式の真っ最中だった。

きっと私のことなんて、どうでもいい赤の他人だとしか思っていないのだろう。

私はウィリアム先生の手からスマホを奪い取り、電話を切った。

雅人が「はい、誓います」と言うのを聞きたくなかった。彼らの結婚式のことなんて、何も聞きたくなかった。

ショックを受けたせいか、私の病状は悪化し、意識を失ってしまった。

昏睡の中、私は幼い頃に戻っていた。

六歳の私は父の書斎に座り、原稿用紙に初めての物語を真剣に書き綴っていた。

「千尋の文章には、魂が宿っているな」

父は優しく私の頭を撫でた。

「お前はきっと、素晴らしい作家になる」

あの頃の父の目は、慈しみに満ちていた。私のどんな創作にも拍手を送り、私の落書きのような小説を額縁に入れて、書斎の一番目立つ場所に飾ってくれた。

「お父さん、私、これからいっぱい、いーっぱいお話書いてお父さんに見せるね!」

私は小さな顔を上げ、目を星のように輝かせた。

「ああ、お父さんは待ってるよ」

彼は、とても温かく笑った。

しかし、夢は突然歪んだ。

七歳の年、璃乃の母親が彼女を連れて私たちの家にやって来た。その女の人は母に七分も似ていて、話し方の抑揚までそっくりだった。

父は呆然と彼女を見つめ、その目には私には理解できない感情が浮かんでいた。

「おじさま、私が書いた詩です」

八歳の璃乃が、おずおずとピンク色の便箋を差し出した。

父はそれを受け取って目を通し、驚きの表情を浮かべた。

「こ……この文体は……」

「あの子の母親にそっくりでしょう?」

璃乃の母親は優しく微笑んだ。

「璃乃は文学の才能があるんです。母親に似て」

その日から、すべてが変わった。

父は璃乃と過ごす時間が長くなり、彼女の「才能」を褒め称え、彼女の作品を世に広めた。

そして私、かつて掌中の珠だった私は、少しずつ隅へと追いやられていった。

けたたましい電話の呼び出し音が、私を苦しい記憶から現実へと引き戻した。

私は弱々しく電話に出る。画面には「兄さん」と表示されていた。

「千尋!」

大志の怒りの咆哮が、鼓膜を破らんばかりに響き渡る。

「一体何をしたんだ⁉」

「なに?」

私は困惑して尋ねた。

「お前の一本の電話で、雅人が結婚式を放り出して璃乃を捨てたんだぞ!」

大志の声は怒りに満ちている。

「式の途中で、雅人が突然ゲスト全員に『申し訳ない』と言って、教会を飛び出して行ったんだ!」

私は完全に呆然とした。

「でも……でも彼は、あんなこと言ってたのに……」

「璃乃は満座の笑いものになった!皆が噂してる、やっぱりお前という高嶺の花が忘れられなかったんだってな!」

大志の声は激しい怒りを帯びていた。

「璃乃はその屈辱に耐えられず、飛び降りたんだ!助けられたが、今は怪我をして病院にいる!全部お前のせいだ!」

「ち……違う……」

私はか細く弁解する。

「私は彼に結婚式から去れなんて言ってない。こっちから電話を切ったくらいなのに……」

「もういい!」

大志が怒鳴った。

「千尋、お前には本当に騙され続けた!帰国して邪魔をしたいだけだと思っていたが、まさか璃乃の命まで奪おうとするとはな!」

世界がぐるぐると回り、高熱で思考が鈍くなる。

「兄さん……」

私は声を詰まらせて、絶望に満ちた声で言った。

「私、本当に兄さんとお父さんから愛されたことってあったのかな?愛されてる人間が、死ぬほど重い病気になって、泣いてお願いしても国に帰してもらえないなんてこと、ある?」

大志は数秒黙り、それでも口調は冷たいままだった。

「本当に家族を心配してるなら、これ以上かき回すな。璃乃は今も手術室で生死の境をさまよっているんだ。満足か?」

反論したかったが、突然、強烈な吐き気が喉元までこみ上げてきた。

「おえっ——」

大量の鮮血が私の口から激しく噴き出し、真っ赤な血液が瞬く間に真っ白なシーツを染め上げ、それはあまりにも衝撃的な光景だった。

モニターがけたたましくアラームを鳴らし始め、耳障りな警報音が病室中に響き渡る。私の血圧は急上昇し、心拍は極度に不規則になった。

「18番ベッド、危険状態!18番ベッド、危険状態!」

看護師の悲鳴が病院の静寂を切り裂く。

「早くウィリアム先生を呼んで!救急準備!」

「千尋?千尋!」

電話の向こうから、大志の突然狼狽した声が聞こえる。

「どうしたんだ?また誰かと組んで芝居でもしてるのか?」

私はもう話すことができず、ただ看護師たちの慌ただしい足音と、様々な医療機器の騒々しいアラーム音だけが聞こえていた。

「血圧180の120!心拍数155!」

「瞳孔反応鈍化!」

「救急薬準備!手術室に連絡!」

意識が完全に遠のく寸前、電話の向こうから大志のアシスタントの慌ただしい報告がかすかに聞こえた。

「大志さん!大変です!雅人さんが国外へ!」

「なんだと⁉」大志の驚愕する声。

「雅人さんのお父様がボディガードを何十人も使って止めようとしたんですが、雅人さんは振り切って!プライベートジェットはすでに離陸、目的地はアメリカです!」

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