第21章 願者が釣れる

腕時計に目をやると、まだ就業時間には早い。水原茜は小さくため息をつき、手元の仕事を中断すると、バッグと車のキーを手にエレベーターホールへと向かった。

回転ドアを抜けると、一台の黒塗りのセダンがエントランス前に滑るように停車しているのが見えた。運転手の田中が、こちらに気づいて軽く会釈する。

後部座席の窓ガラスには、藤原空の小さな顔がぴったりと張り付いていた。茜の姿を認めるなり、ぱっと表情を輝かせ、小さな手足をぱたぱたとさせている。

「ママ!」

その澄んだ声と屈託のない笑顔は、茜の中に溜まっていた疲労を綺麗に溶かしていくようだった。彼女は自然と早足になる。

認めたくはなかったが、夫であ...

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