第1章
清桐市のしたまちにある、みすぼらしいアパートの一室で、私は軍服のような緑色の折りたたみ椅子に腰かけていた。震える手の中で、病院の診断書がカサリと音を立てる。
【進行性の悪性腫瘍、多臓器転移。推定生存期間、四~六週間】
「一ヶ月か……」
私の声が、がらんとした部屋に響いた。
「むしろ慈悲深い」
青ざめた顔に、自嘲の笑みが浮かぶ。
「英鳴市で爆弾が炸裂するのを待つよりは、よっぽど確実だ」
足元で丸まっていたヨルが、私の感情の変化を察して不安げにクンと鳴いた。シェパードの茶色い瞳が私を捉える。光の加減で、右耳の欠けた部分――戦争で刻まれた傷――がやけにはっきりと見えた。
壁に目をやる。戦争の写真、記念章、そしてテーブルに散らばる痛み止めの薬瓶とPTSDの治療記録。それが、私の二十九年間のすべてだった。
「なあ相棒」
私は屈みこんでヨルの頭を撫でた。
「私が死んだら、骨でも齧って生き延びるかい?」
ヨルはクゥンと鳴き、私の手のひらに鼻をすり寄せた。
「縁起でもないな……」
私は立ち上がる。
「君に新しい家を見つけてやらないと」
キッチンでヨルの餌を準備しようと冷蔵庫を開けた私は、ここ数日、自分もまともに食事をしていないことに気づいた。食欲不振、急激な体重減少――よく知る症状だったが、医者から告げられたタイムリミットには、やはり動揺を隠せない。
ヨルは頑として餌を食べようとせず、じっと私を見つめている。軍用犬としての訓練が、彼に危険信号を察知させていた。私が、戦場で嗅ぎ慣れた匂いを纏っていることを。
死の匂いを。
「食べて」
私は餌のボウルを彼の方へ押しやる。
「どっちにしろ、君は生きなきゃならないんだ」
ヨルはそれでも動かず、ただその鋭い瞳を私に固定していた。
私はしゃがみ込み、彼の頭に顔を寄せる。
「この頑固者……私が逝ったら、君はどうなるんだ?」
太陽が落ち、部屋が薄暗くなっていく。私はある人物のことを考えていた――二度と連絡しないと誓った、あの男のことを。
私はリビングで、ソファに座ってスマホの連絡先をスクロールしていた。外では街灯が灯り始め、オレンジ色の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。
私の指は、三年前にブロックした名前の上で止まった。三浦煉。
元恋人で、衛生兵で、プロフェッショナルで、冷たい男。氷のように冷え切った別れの瞬間が、今も鮮明に記憶に残っている。
「三年か……」
私は深呼吸し、三浦煉をブロックリストから外した。
「番号、変えてないといいけどな」
電話をかける。
ワンコール、ツーコール、スリーコール……。
緊張を察したのか、ヨルが私の脚に寄りかかり、温かい体を押し付けてくる。
七回目のコールの後、相手が出た。
「もしもし?」
聞き覚えのある、けれどどこか他人行儀な男の声。
「三浦煉?私、近藤礼芽」
短い沈黙。そして――ツーツーという切断音。
切られた。
私は歯を食いしばり、すぐさまかけ直した。
今度は二回コールしただけだった。
「よくもまあ、電話してこられたもんだな」
三浦煉の声は氷のように鋭く、敵意に満ちていた。
「頼みたいことがあるの……」
「頼み?」
三浦煉は冷たく笑った。
「てっきりどこかの戦場で野垂れ死んだものかと」
「それに近い」
私は目を閉じた。
「聞いて。私、死ぬの。本当に。あと一ヶ月。遺体の処理と、ヨルを引き取ってくれない?」
電話口から、乾いた笑い声が聞こえた。
「ようやく死ぬのか?」
三浦煉の声には皮肉がたっぷり含まれていた。
「俺を裏切って、母親の金を奪って、自分の親まで捨てたお前だ――死んで当然だろ」
胸に鋭い痛みが走る。それが腫瘍のせいなのか、心の痛みなのか、分からなかった。
「死ぬフリで同情を引くつもりか?まだ俺にお前への情が残ってると思ってるのか?」
三浦煉の声はさらに冷たくなった。
「本当に死ぬなら、ああ、死体くらい処理してやるよ。お前の遺灰で砂時計でも作るには、ちょうどいい機会だ」
「三浦煉……」
「またPTSDが騒ぎ出したか?今度の同情を引く手口は何だ?」
私はスマホを強く握りしめた。
「PTSDが増悪させた悪性腫瘍、多臓器転移。病院の松本先生直々の診断よ。電話して確認してもいい」
向こう側が、ふいに沈黙した。
数秒後、三浦煉の声が戻ってきた。相変わらず氷のように冷たい。
「……お前が生きようが死のうが、俺がまだ気にかけるとでも?」
「その方が好都合」
私は力なく笑った。
「心置きなく、私の死を見届けられるでしょ」
ツーツー。
また切られた。
私は三浦煉の番号をかけ直した。
呼び出し音が鳴り始めた瞬間、彼が切る前に畳みかけた。
「切らないで!私を心底憎んでるのは分かってる、でも聞いて!本当にあと一ヶ月しかないの!」
電話の向こうから、荒い呼吸が聞こえる。
私はスマホをさらに強く握りしめ、指の関節が白くなった。
「これは正真正銘の死亡宣告なの。PTSDが増悪させた進行性の悪性腫瘍。病院の腫瘍内科の診断よ。三浦煉、あんたは医者なんだから、診断書を見れば誰より分かるはず――」
「俺の歓心を買うために、死ぬ芝居まで打つとはな」
三浦煉は突然、電話口に響き渡るような甲高い笑い声を上げた。
「お前は本当に、何でもする女だな」
「これは医学的に証明された死へのカウントダウンよ」
私の声は、恐ろしいほどに穏やかだった。
「三浦煉、この一ヶ月が過ぎたら、元カノの臨終介護VIP体験は、どんなに金を積んでも二度と買えない」
電話口から、怒りに満ちた喘ぎが聞こえてきた。
私は続ける。
「さっき言ってた砂時計のアイデア……最高だと思う。私で砂時計を作れば、毎日サラサラ落ちていく灰を眺めて、復讐が叶った甘美な満足感に浸れるじゃない」
「てめえ――ッ!」
三浦煉が猛然と怒鳴った。
通話は乱暴に断ち切られた。
切断音を聞きながら、私は乾いた笑みを浮かべる。私の感情を察したヨルが寄ってきて、温かい体を脚に押し付けた。
「どうやら本当に、二人きりで野垂れ死ぬことになりそうだな」
私はその頭を撫でた。
「まあ、君なら、私の灰の味も気にしないだろうしな」
その時の私は、彼が三十分もしないうちに我が家に現れることになるとは、知る由もなかった。






