第3章

カタリーナ視点

 午前四時、私はまたしても正気とは思えない決断を下した。

 警備の交代の隙を突き、別荘の裏口から滑り出る。今回、私が目指したのはジャングルではなく、浜辺だった。森で再び捕まるくらいなら、遥か彼方に見える孤島まで泳ぎ切ることに賭けたほうがましだ。

 夜明け前の闇に包まれたカリブ海は残酷なほど冷たかったが、そんなことは構っていられなかった。私は必死に前へ前へと泳いだ。肺が焼けつくように熱く、水をかくたびに腕が鉛のように重くなっていく。

 くそっ、自分の体力を過信していた。

 波は想像以上に荒々しく、私を何度も岸へと押し戻そうとする。歯を食いしばって進み続けたが、体力は急速に奪われていった。

 その時、全身の血が凍りつくような背びれが目に飛び込んできた。

「嘘でしょ……」

 私は息を呑み、半狂乱になって岸へ向かって泳ぎ始めたが、鮫のほうが遥かに速かった。

 鮫は私の周りを旋回し、この突然現れた獲物を値踏みしているようだった。その視線――死そのものに見つめられているような恐ろしい感覚が、肌で感じ取れる。

「助けて! 誰か助けて!」

 私は必死に叫んだ。その声は虚しく海原に響き渡るだけだった。

 その時だ。別荘から見慣れた人影が水しぶきを上げて海へ飛び込んできたのは。

 ディミトリだ。彼はダイビングナイフを手に、イルカのように水を切り裂きながら、驚異的な速さで泳いでくる。

「死ぬ気か!?」彼は私に向かって泳ぎながら咆哮した。「この海域は人食い鮫の巣窟なんだぞ!」

 最も巨大な鮫が彼に気づき、剃刀のように鋭い歯が並ぶ巨大な顎を開けて、ディミトリに突進した。

 だが彼は避けるどころか、真っ向から鮫に向かっていく。食いつかれる寸前、彼は身をひねって攻撃をかわすと、鮫の腹深くにナイフを突き立てた。

 瞬く間に海水が赤く染まる。手負いの鮫が激しく暴れ回り、その巨大な尾びれがディミトリの左腕を強打した。苦悶のうめき声が聞こえたが、彼はナイフを離そうとはしない。

 血の匂いに誘われ、別の鮫が近づいてくる。ディミトリは片手でナイフを構えて牽制しつつ、もう一方の手で私に向かって泳いできた。

「手をつかめ!」

 彼が血まみれの腕を伸ばす。

 私は必死に彼のもとへ泳いだ。二匹目の鮫が私に食らいつこうと顎を開いたその瞬間、彼は私を背後へ引き寄せ、正確無比な動きで鮫の眼球にナイフを突き刺した。

 ようやく浅瀬にたどり着く。残りの鮫たちは深みで旋回するばかりで、それ以上近づこうとはしなかった。

 私たちは浜辺に倒れ込み、二人して肩で息をした。

 夜が明けはじめ、血に染まった砂浜に、九死に一生を得た私たちの姿があった。ディミトリの左腕は酷い怪我を負い、ダイビングナイフは血に濡れ、その瞳は怒りに燃えていた。

「どうして……どうして私を助けたの?」

 私は彼の血が滴る腕を見つめ、複雑な感情に揺れた。

「お前との遊びはまだ終わっていないからな」

 彼は刃についた血を拭いながら、冷ややかな笑みを浮かべた。

「死んで逃げられるとでも思ったか? そんな楽な道、選ばせるわけがないだろう」

 その答えは、私を完全なる絶望へと突き落とした。私は半狂乱で彼に飛びかかり、その胸を拳で叩いた。

「大っ嫌い! あなたが憎い、憎くてたまらない!」私は泣き叫びながら彼を殴り続けた。「どうしてこんなに私を苦しめるの? いっそ殺してよ!」

 彼は避けることなく、私の怒りを受け止めた。拳が痛んで動かせなくなった頃、彼が私の手首を掴んだ。

「俺だって苦しんでいるんだ!」

 初めて彼が私の前で感情を露わにし、声を枯らして叫んだ。

「お前に憎まれるのを見るのが平気だとでも思うか? お前を閉じ込めておくのが楽しいとでも?」

「じゃあ、どうして解放してくれないの?」涙越しに彼を睨みつける。「苦しいなら、私を離してよ! ガブリエルのもとへ帰して!」

 その名前を聞いた瞬間、ディミトリの表情が歪んだ。手首を掴む力が強まり、骨が砕けそうなほど締め付けられる。

「ガブリエルだと? またその忌々しい名前か!」

 彼は私を砂の上に押し倒し、その体で押さえつけた。燃えるような熱い胸が私に押し付けられる。

「いいか?」彼の吐息が顔にかかる。「お前があいつの名を口にするたび、俺は……」

 彼は言葉を濁したが、その体が強張っているのが分かった。

「何がしたいの?」私は冷ややかに笑った。「私を殺したいの?」

「あいつのことなど忘れさせてやる」

 彼の声は掠れ、親指が私の唇をなぞった。

「俺のことしか考えられないようにしてやるんだ」

 その感触に背筋が震えたが、それが欲望によるものだとは認めたくなかった。

「絶対に嫌!」

 私は彼の親指に食らいつき、口の中に鉄の味が広がるまで強く噛んだ。

「ガブリエルのことは絶対に忘れない! 死んだって忘れるもんか!」

 プツン。

 その言葉が、ディミトリの理性の最後の糸を完全に断ち切った。彼は乱暴に私の顔を掴むと、激しく唇を重ねてきた。

 血の味がするほど強く、私の唇を噛む。

「やめて……離して!」

 必死に抵抗したが、彼は鉄のような力で私の頭を押さえつけた。

「二度とあいつの名を口にするな!」彼は唇を押し付けたまま咆哮した。「二度とな!」

 鉄錆のような味が二人の口内に広がり、痛みが神経を駆け巡る。そして突然、その痛みが別の記憶を呼び覚ました。

 あれもまた、血の味がする口づけだった。だが、あのキスは優しく、甘かった……。

 五年前、マイアミ大学のキャンパス。

 ブーゲンビリアの花びらが舞う春の午後、私は初めてガブリエル・ロマーノと出会った。

 陽光に輝く金髪、深い緑色の瞳。飾り気のない白いシャツとジーンズ姿からは、正義感と大人の魅力が溢れ出ていた。

「やあ、ガブリエルだ」

 先に自己紹介をした彼の声は、温かく、人を惹きつける響きがあった。

 瞬間、心臓が早鐘を打った。一目惚れ――それはまさにこういう感覚なのだろう。

 その夜、私は興奮してディミトリに電話をかけた。「すごくハンサムなの! それに知的で、話し方も素敵で、正義感があって……ねえ、彼と仲良くなれるように協力してくれない?」

 受話器の向こうで沈黙が続き、やがて疲れたような声が返ってきた。「ああ。協力してやるよ」

 それからの数ヶ月、ディミトリは何度もパーティーや偶然を装った出会いをセッティングしてくれた。だがガブリエルは距離を置いたままで、礼儀正しいが冷淡だった。

「恋人のふりをして、あいつに嫉妬させるんだ」

 ある日、ディミトリが提案した。その瞳の奥に絶望の色が走ったことに、私は気づきもしなかった。

 そうして残酷な茶番劇が始まった。ディミトリは完璧な彼氏を演じた――優しく、献身的で、思いやりに満ちていた。その振る舞いがあまりにリアルで、時折、私でさえ心が揺らぐほどだった。

 作戦は成功した。ガブリエルはこちらを意識し始め、嫉妬の混じった視線を感じるようになった。

 そして、運命の夜が訪れる。

 満月の下、私はガブリエルの前でわざとディミトリと親密に振る舞った。頬にキスをし、抱きしめられるままに身を委ねる。彼の体が震えているのを感じたが、私はそれを演技による緊張のせいだと勘違いしていた。

「もういい」

 ついにガブリエルが爆発し、私たちを引き離した。

「カタリーナ、話がある。二人きりで」

 胸が張り裂けそうなほどの期待を抱き、私はディミトリを振り返った。彼はゆっくりと腕を解き、完璧な笑顔を浮かべた。

「行けよ。幸せを掴んでこい」

 ガブリエルは私を浜辺へと連れ出し、月明かりの下で情熱的なファーストキスをくれた。それは目眩がするほど甘い、私の初めての口づけだった。

 キスをしながら、遠くにいるディミトリの姿が目に入った。彼はまだそこに立ち尽くしていた。月光に滲むその姿は、永遠とも思える時間のあと、ようやく背を向けて歩き去っていった。そのシルエットは胸が痛くなるほど孤独に見えた。

 けれど恋の甘さに溺れていた私は、その時、深く考えることをしなかったのだ。

 自分の叫び声で目が覚めた。

 嵐の夜、雷鳴が轟き、雨が鈍い音を立てて窓を叩いている。私は冷や汗でびっしょりと濡れ、心臓は早鐘を打っていた。悪夢があまりにリアルで、あの血塗られた夜へと引き戻されたようだった。

 父がこめかみに銃を突きつける光景、壁に飛び散る鮮血、絶望に満ちた最期の眼差し……。

「嫌……」私は顔を覆い、指の隙間から涙が溢れ出した。「お願い、やめて……」

 寝室のドアが開いた。暗色のローブを纏ったディミトリが立っている。私の叫び声で起きたのだろう。

「また悪夢か?」彼は静かに言った。

 彼の顔を見た瞬間、恐怖はすべて怒りへと変わった。私はベッドから飛び出し、狂ったように彼に突進した。

「この悪魔! 人殺し!」私は半狂乱で彼の胸を叩いた。「あなたが私の家族を壊したのよ!」

 彼は身じろぎもせず、私の攻撃を受け止めている。

「お父さんは死んで、お母さんは気が狂ってしまった! 全部あなたのせいよ! あなたの復讐のせいで!」

「自業自得だ」彼は冷徹な声で私の手首を掴んだ。「お前の父親は、こうなることを予期しておくべきだったんだ」

「殺してやる!」怒りで理性が吹き飛んだ。私は彼の喉元に手を伸ばした。「家族の仇を討ってやるんだから!」

 だが、私の力など彼には通用しなかった。彼は簡単に私を取り押さえると、両腕を背後に回し、背後からその体を押し付けてきた。

「復讐だと?」彼は私の耳元で冷ややかに笑った。「何を使って復讐するつもりだ? お前は今や、俺のただの囚人でしかないというのに」

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