第1章
俺の名は北瀬健、二十八歳。フリーのカメラマンだ。
東京近郊に立つ中級クラスのマンション。引越し初日の今日、業者が引き上げたばかりの段ボールの城に囲まれ、俺はリビングの真ん中で深呼吸した。真新しい壁紙とワックスの混じった、いわゆる『新居』の匂いがする。
窓の向こうには、無数の光の点がまたたく東京のスカイラインが滲んで見えた。以前のワンルームとは比べ物にならない広さ、そして何より、この夜景を見下ろせる小さなバルコニー。都市風景を専門に撮る俺にとって、ここは願ってもない仕事場だった。
「さてと……まずは隣にご挨拶だな」
俺は用意しておいた菓子折りを二つ手に取り、ひとつ息を吸い込んでから玄関のドアを開けた。
やがて、かすかな足音とともに隣のドアが静かに開き、俺は息を呑んだ。
「はい、どなた様でしょうか」
そこに立っていた女性は、まるで月光を練り上げて作ったかのような人だった。華奢な体は優美な曲線を描き、室内の柔らかな照明を浴びた白い肌は、透けるようにきめ細かい。その顔立ちは、名工が丹念に彫り上げた芸術品のように完璧に整っていた。
彼女はシンプルな部屋着の上に上質なエプロンを着けており、どうやら夕食の準備をしていたらしい。
「あ……こんにちは。隣に越してまいりました、北瀬健と申します」
我に返った俺は、慌てて頭を下げた。
「これ、ほんの気持ちです。これから、どうぞよろしくお願いします」
「ご丁寧にありがとうございます」
彼女は花が綻ぶように微笑み、菓子折りを受け取った。
「越沼玲と申します。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
その時、部屋の奥から穏やかな男の声がした。
「玲、誰か来たのかい」
「お隣に越してこられた方よ」
彼女が振り返ると、ラフな部屋着姿の男性が姿を見せた。
Tシャツにスウェットという寛いだ格好だが、その立ち姿には不思議な品があった。
「どうも、はじめまして。夫の越沼政生です」
すっと差し出された手を、俺も握り返す。
「ようこそお越しくださいました」
「北瀬健です。こちらこそ、よろしくお願いします」
「ちょうど夕食にするところだったんです。もしよろしければ、ご一緒にいかがですか」
越沼政生さんは、実に気さくにそう誘ってくれた。
「玲の料理は絶品なんですよ」
一度は断ろうと思ったが、隣で微笑む越沼玲さんの姿に、俺はその申し出をありがたく受けることにした。
越沼家のリビングは、白とグレーを基調とした、ミニマルながらも上質な空間だった。高価そうな家具がさりげなく配置され、壁に掛けられた数枚の風景写真は、プロのそれと見紛うほどのクオリティだ。住人の非凡なセンスがそこかしこに見て取れた。
食卓に並んだ和食は、食欲をそそる出汁の香りが鼻腔をくすぐる。小鉢に丁寧に盛り付けられた煮物は、それだけで一つの芸術品のようだった。
「北瀬さんは、どんなお仕事を?」
食後にお茶を淹れながら、越沼さんが尋ねてきた。
「フリーのカメラマンを。主に雑誌向けの都市風景を撮っています。最近は個人のブログに作品を載せたりも」
「それは素晴らしい」
越沼さんは感心したように頷いた。
「時間に縛られない仕事なんて、我々サラリーマンにとっては夢のような話ですよ」
どう返すべきか分からず、俺は曖昧に微笑んだ。
「越沼さんは、どのような?」
「私は、しがない中間管理職ですよ」
彼は大げさに手を振って見せる。
「毎日会社に行って、たまに残業して。何の変哲もない生活です」
「北瀬さんのような自由なご職業、本当に羨ましいですわ」
隣で、玲さんがそっと相槌を打った。その視線がふと俺の顔を捉え、そしてすぐに伏せられて白磁の皿へと落ちる。
その一瞬の視線に、俺は何かを探るような色を感じ取り、心臓が小さく跳ねた。
夕食後、玲さんは手作りだという焼き菓子を持たせてくれた。
彼女が箱を差し出した時、その指先が、俺の手にそっと触れた。触れたのは、ほんの一瞬。だが、その柔らかな熱が、微弱な電流のように俺の身体を駆け抜けた。
それから数日後の深夜。撮り溜めた写真のレタッチを終え、ゴミを捨てに階下へ降りた俺は、マンションのゴミ捨て場で思いがけない人物に再会した。
常夜灯の頼りない光の中に、越沼玲さんがいた。
彼女は膝丈のゆったりとした部屋着を身に着けている。薄暗い光がその輪郭をなぞり、下に隠された身体の曲線を官能的に浮かび上がらせていた。
「あら、北瀬さん」
俺に気づいた彼女は少し驚いたように目を見開き、すぐにくすりと微笑んだ。
「こんな夜更けまで起きていらっしゃるのね」
「ええ、ちょうど写真の整理が終わったところで」
俺は言い訳のように答える。
彼女は屈んで、丁寧にゴミを分別し始めた。そのたびに、ゆったりとした部屋着の裾がはらりと揺れ、滑らかな太腿がちらりと覗く。見てはいけないと分かっているのに、視線が縫い付けられてしまう。
ふと、彼女が顔を上げた。
絡み合った視線。彼女の頬が、薄闇の中でも分かるほど淡く色づいた。
俺は自分の無作法に気づき、狼狽して目を逸らす。
だが、彼女は俺の視線に気づいている。それなのに、咎めるでもなく、むしろその視線を愉しむかのように、動きはより一層、ゆっくりと、しなやかになっていく。
「北瀬さん、こちらでの生活にはもう慣れました?」
囁くような声だった。
「ええ、おかげさまで」
「何か困ったことがあったら、いつでも声をかけてくださいね」
彼女はそう言って微笑む。その布地が身体の動きに合わせ、肌に吸い付くように微かに震える。
その震えが、雄弁に物語っていた。
薄い布一枚の下には、何も――。
ごくり、と喉が鳴る音が、やけに大きく響いた。








