第3章
昨夜のことが、脳裏に焼き付いて離れない。
そのせいか、ひどく生々しい夢を見た。夢の中の俺は、あの白く滑らかな太ももを両手で掴み、ひたすら同じ律動を繰り返していた。それだけが、妙に鮮明な感触として残っている。
パソコンの前に座り、今日撮ったばかりの都市の夜景写真に意識を向けようと試みるが、どうにも身が入らない。
モニターに映る東京の夜景は、高層ビルの灯りが織りなす光の幾何学模様だ。本来なら会心の一枚になるはずなのに、少しも俺の心を捉えようとはしなかった。
瞼の裏にちらつくのは、腰をかがめてゴミをまとめる越沼奥さんの、あの瞬間。マンションの廊下の薄暗いダウンライトの下で、彼女のうなじから肩にかけての線は抜きんでて優美で、まるで計算され尽くしたモノクロームの写真のようだった。見え隠れするその曲線は、俺がこれまで撮ってきたどんなポートレートよりも、心を激しく揺さぶった。
「駄目だ、こんなんじゃ」
俺はひとりごち、無理やり意識を仕事に引き戻そうとする。
だが、堂々巡りの思考の果てに、頭に残った想いはたった一つだった。
決めた。今夜、同じ時間にもう一度ゴミを捨てに行く。
もしかしたら、また彼女に会えるかもしれない。
翌日の夜、俺は読み終えたばかりの写真雑誌を数冊、申し訳程度のゴミ袋に押し込んだ。
我ながら拙い口実に苦笑しつつ、昨夜と寸分違わぬ時刻にゴミ捨て場に現れるよう、時間を計る。
防火扉を押し開けると、心臓が知らず識らずのうちに早鐘を打っていた。果たして、遠くに彼女の後ろ姿が見えた。
今夜の越沼奥さんは、昨夜の姿とはまるで違っていた。優雅な黒いトレンチコートを纏い、髪もほつれなく結い上げられている。一日中家に籠もっていたというより、むしろ今しがた外から帰ってきたばかり、といった風情だ。
「こんばんは、越沼奥さん」
努めて平静を装い、自然に聞こえるよう声をかけた。
「あら、北瀬さん。またお会いしましたね」
彼女は小さく頷く。その優しい口調が、逆に倒錯した欲望を掻き立てる。この女を組み敷き、心を昂らせるような抗いの言葉を喘ぎに変えさせてみたい、と。
試してみるか?
俺はわざと動きを緩め、もったいぶるように写真雑誌を古紙回収ボックスに滑り込ませた。視界の隅で、越沼奥さんが真剣な面持ちで不燃ごみを分別しているのが映る。その一つ一つの所作が、優雅で落ち着いていた。
今夜の彼女は、昨夜とは別人だ。その端正な佇まいは、ゆったりとした部屋着姿の、あの隙のある女とはとても結びつかない。
俺は昨夜の自分の妄想に、一瞬、罪悪感を覚えた。
人の妻に邪な想いを抱くとは、我ながら不埒なことだ。
「どんなお写真を撮られるんですか?」
越沼奥さんが不意に口を開き、沈黙を破った。
「主に都市風景ですね。たまに雑誌から商業撮影の依頼も受けますが」
俺はそう答えつつ、バッグを直すふりをして、彼女の反応を盗み見る。
越沼奥さんは静かに頷いた。
彼女の全ての動きは、まるで入念に振り付けられているかのようだ。それでいて、少しもわざとらしさを感じさせないのが不思議だった。
ゴミの分別を終え、俺たちは再び並んでエレベーターへと向かった。狭い箱の中で、俺は今夜の彼女の装いを改めて観察せずにはいられなかった。黒いトレンチコートが彼女の細い腰のラインを際立たせ、共布のリボンが上品に結ばれている。
薄化粧を施した唇は、いつもより少しだけ色が濃い。エレベーターの照明の下で、それがひどく蠱惑的に見えた。
甘く、微かな香水の粒子が、密室となった空間に妙な緊張感を孕ませていく。
これほど美しく端正な妻を持つ越沼という男に、俺は嫉妬にも似た羨望を覚えた。だが同時に、数日前にマンションの下で、彼が小柄な別の女と親しげに語らっているのを目撃したことも思い出す。二人の距離は、他人の目にもわかるほど親密で、どこか艶めかしくさえあった。
この事実を、彼女に伝えるべきだろうか。
迷っているうちに、エレベーターは俺たちの住む階に到着し、ドアが滑らかに開いた。
「お休みなさい、越沼奥さん」
俺は礼儀正しく別れの言葉を口にした。
「お休みなさい、写真家さん」
彼女は悪戯っぽく微笑んで応えた。その呼び名に含まれた微かな親密さに、俺の心臓が小さく跳ねた。
俺たちが別れようとした、まさにその時だった。廊下の窓から、生暖かい春の夜風が吹き込んできた。夜風が悪戯に彼女の腰のリボンを解き、コートの前がわずかにはだける。その瞬間、俺は見てしまった。コートの下、彼女がレースの肌着一枚しか身につけていないのを。そこに、雪のような素肌が覗いていたのを。
視線が、空中で一瞬だけ絡み合う。彼女の瞳に一瞬よぎった複雑な光を、俺は見逃さなかった。驚きと、羞恥と――そして、俺にはまだ読み解けない何か。越沼奥さんの頬に淡い朱が差したが、彼女は慌てる素振りも見せず、優雅に前を合わせると、吐息まじりに「すみません」とだけ囁いた。
そして、振り返り際に、意味ありげな微笑みを俺に残して、静かにドアの向こうへ消えた。
俺はその場に立ち尽くし、しばし呆然としていた。
今の一幕は、本当にただの偶然だったのか? それとも、計算され尽くしたアクシデントだったのか?
越沼奥さんの仕草、あの眼差しを思い返すほど、全てが出来すぎているように思えてならなかった。
自室に戻りパソコンを開くが、モニターに映る写真には少しも集中できない。頭の中は、彼女の姿でいっぱいだった。俺は道徳と欲望の狭間で、葛藤の渦に呑まれていた。この関係をこのまま自然に任せるべきか、それとも既婚者という境界線を尊重し、距離を置くべきか。
ふと、意地の悪い考えが頭をもたげる。
あの男が他の女を抱けるのなら、彼の妻が俺の腕の中に堕ちてきたとて、なんの不公平があるだろうか?








