第1章

国際展示場の会場内は、人々の熱気と喧騒に包まれていた。私は「秋生テクノロジーベンチャーズ」のブースに設置された、最後の一台となるスマートディスプレイの角度を慎重に調整する。当社が新たに出資したAIプロジェクトの成果を、完璧な形で披露するためだ。

「気をつけて、そのスタンド、ちょっと不安定だから!」

音響機材を担当するスタッフが横から声をかける。

私は小さく頷き、その場を離れようとした瞬間——背後から、カツカツという慌ただしいヒールの音が迫ってくるのが聞こえた。

「どいて! そこ、どいてったら!」

反応する暇もなかった。背中に強烈な衝撃が走る。

バランスを崩した私は前へとつんのめり、ただでさえ不安定だった展示用スタンドが倒壊した。重厚な金属製フレームが、私の頭部を直撃した。

瞬時に鮮血が噴き出し、額を伝って床へと滴り落ちた。

頭を押さえながら視線を上げると、早足で近づいてくる秋生の姿が見えた。その後ろには、オフホワイトのデザイナースーツに身を包んだ、長身の女性が続いている。私を突き飛ばした張本人だ。

「本当にごめんなさい!」

その女性は流暢な英語で言った。

「急いでいたものだから、そこに人がいるなんて気づかなくて」

血は止まることなく流れ続け、視界が霞んでいく。

軽度の血小板減少症を患っている私は、一度怪我をするとなかなか血が止まらないのだ。

「心夢、どうしてそんなに不注意なんだ?」

秋生は眉をひそめたが、その口調に含まれていたのは叱責よりも、明らかに相手を気遣う響きだった。

心夢? 私の心臓が嫌な音を立てる。

彼が学生時代から十年間、想い続けてきたという、あの「心夢」なのだろうか。

「秋生、やっと会えた!」

心夢は私など眼中にない様子で、そのまま秋生の胸に飛び込んだ。

「飛行機を降りてすぐに駆けつけたのよ。あなたを驚かせたくて。まさか、こんな事故が起きるなんて思わなかったわ」

秋生は心夢の背中を優しく叩きながら、複雑な眼差しで私を一瞥した。

「そんなことより」

心夢は秋生の腕から離れると、優雅な仕草で髪を整えた。

「そちらの方、傷が深そうじゃない。救急車を呼びましょうか?」

「結構です」

私はふらつく足でどうにか立ち上がり、傷口を強く押さえた。

「ただのかすり傷ですので」

「あら、そんなに出血しているのに、かすり傷だなんて」

心夢は心配そうな表情を作ったが、その声色には、明らかに上から目線の同情が含まれていた。

「あなた、ブースのスタッフよね? 治療費の請求書を秋生の秘書に渡してちょうだい。全額賠償するわ」

そこへ、秋生の秘書である小林が駆けつけてきた。私を見るなり、彼はぎょっとした表情を浮かべる。

彼は、私と秋生が隠れて結婚している事実を知る数少ない人物であり、同時に心夢の存在も知っている。気まずそうにするのも無理はなかった。

「西野さん、出血が止まりませんが……凝固系の持病などは?」

小林が恐る恐る尋ねる。

「ええ、軽度の血小板減少症がありますので」

私は淡々と事実を告げた。

秋生の表情が、にわかに険しいものへと変わた。

彼が私の体質を知らないはずがない。何しろ私たちは、もう三年近くも「結婚」しているのだから。

「秋生、この方のこと、知ってるの?」

心夢が何かを敏感に察知し、疑わしげな視線を私たちに向けた。

時間が止まったようだった。秋生の視線が私と心夢の間を彷徨っていた。一瞬の躊躇の後、彼は口を開いた。

「いや、知らない。会社の社員で、顔を何度か合わせたことがあるという程度だ」

私の心は、瞬く間に冷え切った底へと沈んでいった。

私たちの関係が契約だけのものであることは知っていた。彼の心の中で、心夢という存在がどれほど大きいかも理解していた。だが、このような状況でこれほど冷徹に他人扱いされたことは、骨の髄まで凍りつくような寒さを私に与えた。

「なら、いいのけれど」

心夢は安堵の息を吐き、再び秋生の腕に絡みついた。

「てっきり……でも、不慮の事故とはいえ怪我をさせてしまったのだから、補償はきちんとするわ」

「あとは小林が処理する」

秋生は私から目を逸らし、心夢に向かって言った。

「会議室へ行こう。今日の製品発表会について、最終確認が必要だ」

「ええ、シリコンバレーでの新しいプロジェクトについても、あなたとじっくり話したかったの」

心夢は再会の喜びに浸り、興奮気味に喋り続けている。

二人が立ち去る背中を見つめながら、私は二ヶ月前に受け取った契約満了の通知書を思い出していた。このバカみたいな婚姻契約は、あと二ヶ月で終了する。

「西野さん、病院までお送りしましょうか」

小林が心配そうに私を見つめる。

「いいえ、結構です」

私は首を振り、鞄から取り出したティッシュで傷口をさらに強く押さえた。

「契約の規定通り、休業補償さえいただければ」

私の言葉に、小林はさらに気まずさを募らせたようだった。

スマホで配車アプリを開いたが、展示会期間中の渋滞のせいで、ドライバーからキャンセルされてしまった。

もういい。どうせ家は遠くない。歩いて帰ろう。

会場を出ると、港区の夜景に華やかな灯がともり始めていた。

一歩、また一歩と歩を進めるうち、五年前の記憶が自然と蘇ってくる。

あの頃、私は学費に悩むただの高校生だった。母が突然の脳血管障害で倒れ、医療費が家計を圧迫していたのだ。

進学を諦めかけたその時、秋生が設立した「優秀学生支援基金」が私を見つけ出してくれた。

『西野華恋さんですね。君の成績は非常に優秀だ』

カフェで向かい合った若き日の秋生は、私の申請書類に真剣な眼差しを落としていた。

『高校と大学、すべての学業を修了するまで、私が支援しよう』

それが、彼との初めての出会いだった。

当時二十四歳の秋生は、すでに著名な青年実業家であり、その瞳は澄んでいて、揺るぎない意志を宿していた。

『何か困ったことがあれば、いつでも連絡してきなさい』

そう言われた時、私は涙が溢れ出しそうになった。

大学三年生の時、私は恩人である彼——私の運命を変えてくれた人をより近くで知りたいと思い、彼の会社でのインターンを志願した。

『華恋、よく頑張ったな』

インターン終了時、秋生はそう言った。

『卒業後、うちに来たいならいつでも歓迎する』

彼はいつも週末に休日出勤し、誰もいないオフィスに一人で残っていた。私はこっそりとコーヒーを差し入れし、彼も穏やかな声で礼を言ってくれた。

理不尽なクライアントのリクエストに私が泣いていた時は、ティッシュを差し出し、相手に対して厳然と言い放ってくれた。『これは当社の社員の責任ではありません』と。

『私が責任を持つから』

そう言った時の彼の表情は、今でも私の心に深く焼き付いている。

血はまだじわりと滲み出している。私は血に染まったティッシュを強く押し当て、歩く速度を上げた。

あと二ヶ月。そうすれば、すべてが終わる。

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