第1章

 目が覚めると、私は死に戻っていた。

 母が亡くなってから三週間後。私の悲劇が幕を開けた、あの日だ。

 藤原家の会議室。上座には父が座っている。私が生まれてすぐに母と私を捨てた男だ。今、彼は私のために「政略結婚」を画策している。

「桜、お前を呼び戻したのは守ってやりたいからだ。それに、身を寄せられる場所を作ってやりたいというのは、亡き母さんの願いでもある」

 父はもっともらしく言った。

「ちょうど絵理沙も結婚の適齢期だ。これを機に、ふさわしい候補を二人呼んである。お前たちの婚約について話し合おうと思ってな」

 母さんの願い、だと?

 私の記憶にあるのは、苦痛にのたうち、紫色の唇を震わせ、絶望に染まった瞳で息絶えた母の姿だけ。

 あの時、あなたは何処にいたというの?

 向かいには二人の男が座っている。

 西村覚。軍事産業の命脈を握る西村家の跡取りで、藤原家とは代々の付き合いがある。

 遠山亮一。斜陽の一途をたどる遠山家の若当主。かつては敵対していたが、婚姻によって辛うじて両家の平和を保っている関係だ。

 まともな神経なら、どちらを選ぶべきかは明白だ。だが前世の私は、彼らの素性など誰からも知らされず、ただその浅はかな善意を利用され、選択を誘導されたのだ。

「パパの言う通りよ」

 絵理沙が私を見て微笑む。

「妹だもの、先に選んでいいわ。私、何でも譲ってあげるから」

 一言一句、違わない。

 前世では、絵理沙に「覚と愛し合っているから引き裂かないで」と事前に泣きつかれ、私は愚かにも亮一を選んだ。それが善行だと信じて。その対価が、地下牢の鎖だとは知らずに。

 結婚式で、亮一が指輪を嵌めてくれた時の優しい眼差しを覚えている。

「桜、君を愛し、守り抜くと約束する。命ある限り」

 あの時は本気だと思った。良い家に嫁ぎ、ようやく幸せになれるのだと。母もこれで安心してくれるはずだと。

 だが婚約して間もなく、彼は執拗に実家のことを探り始めた。

『親父さんの武器の仕入れ先は?』

『藤原家の帳簿を見たことは?』

『秘密会議の内容を知っているか?』

 私は何も知らなかった。父は私に何一つ教えてくれなかったから。私はただの、疎まれた私生児に過ぎなかったのだ。

 何も知らないと答えるたび、彼の眼差しは冷え切り、口数は減り、やがて家にも帰らなくなった。

 そしてあの日、ついに私たちは衝突した。

『本当は何を知ってるんだ! 親父さんは藤原家の跡目を絵理沙に譲ったんだぞ!』

 彼は私の肩を掴み、怒りを露わにした。

『お前を俺に寄越したんだ、手切れ金代わりの情報くらい持たせたはずだろう!』

『本当に知らないの! お父様は私に何も教えてくれなかった!』

 私が泣き叫ぶと、彼は咆哮した。

『この役立たずが! 藤原の娘を貰えば何か得られると思ったのに、何も知らないだと!』

 結婚指輪を床に叩きつけられ、私は地下牢へ放り込まれた。

——

「桜?」

 父の声で現実に引き戻される。

「何を呆けている。早く選べ」

 目の前の見慣れた光景に、胸の奥で復讐の炎が燃え上がる。

 二度と同じ轍は踏まない。

 絵理沙の視線が覚に向いているのが見えた。その瞳には、隠しきれない欲望が滲んでいる。

 私は立ち上がり、二人の男の間へ歩を進めた。

「私が選ぶのは、西村覚さんです」

 その一言で、会議室は水を打ったように静まり返った。

 絵理沙の仮面が剥がれ落ちる。

「桜……あなた……私と覚が愛し合ってるって……」

「愛?」

 私は冷ややかに問い返す。

「本当に愛し合っているなら、どうして白々しく私に選択権を譲ったりしたの?」

 父が激昂して立ち上がった。

「何を言っているかわかっているのか! 覚君は西村家の次期当主だぞ。あの強大な一族の掟に、お前が適応できると思っているのか!」

「初めから配役が決まっていたのなら、なぜ選ばせるような真似を?」

 すかさず絵理沙が割って入る。

「パパ、桜は極道の家に帰ってきたばかりで、こちらの掟に慣れてないだけよ。パパは桜のためを思って言ってるの。それに……亮一さんは桜に好意を持ってるわ。そうでしょ?」

 全員の視線が亮一に集まる。

 彼はゆっくりと立ち上がり、父を直視した。

「五千万ドルの武器取引を条件に、絵理沙さんを妻に迎えたい」

 そして私を一瞥する。その瞳に浮かんだのは、見覚えのある軽蔑の色だった。

「こちらの世間知らずなお嬢さんとは、友人止まりで願い下げだ」

 心臓が止まるかと思った。

 話が違う。彼は私を選ぶはずだ。

 前世では、藤原家の娘と縁を持てることをあれほど喜んでいたのに。

 前世の彼は、私に利用価値があると思って結婚し、捨て駒だと知って切り捨てた。だが今回は、最初から絵理沙を選んだ。

 まさか、こいつも記憶を持っているのか?

「五千万ドルだと?」

 父の目が欲望に輝く。そして、沈黙を守っていた西村覚に視線を移した。

 覚がゆっくりと立ち上がり、私の目の前で足を止める。

「五千万か。遠山家は随分と気前がいいな」

「ですが、西村家は……他人の食べ残しの粗悪品など受け取りませんよ」

 私を品定めするように見下ろす視線は、氷のように冷酷だった。

「こんなゴミを俺に押し付けようなど、笑わせるな」

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