第4章

 車に戻るや否や、亮一は震える手で携帯を取り出した。さくらを救うための身代金を工面しようと、実家へ電話をかける。

「すぐに家族名義の口座から手配する。五億ドルだ、今すぐに――」

 覚がその手首を強く掴んだ。

「無駄だ。それほどの巨額、それにこの時間じゃ動かせない」

「放せ!」亮一は乱暴に手を振り払う。

「さくらが待ってるんだ! 一分一秒が惜しいんだよ!」

 絵理沙が身を乗り出し、諭すように言った。

「亮一、落ち着いて。彼女、帰国してから灰港での勢力を強めるばかりで、やり方も強引すぎるわ。裏社会の恐ろしさを少しは思い知らせて、その鋭すぎる爪を隠すことを覚えさせたほうがいいんじゃないかしら」

 覚も頷いて同意する。

「絵理沙の言う通りだ。奴らはビジネスマンだ、欲しいのは金であって命じゃない。数時間ほど頭を冷やさせたほうが、彼女のためになるかもしれない」

「お前たち、つまり……」

 亮一の携帯を握る手が、微かに震える。

 絵理沙は優しく彼の方を叩いた。

「彼女のために言ってるのよ。さくらは小さい頃からお母様に守られすぎて、世間の厳しさを知らないの。少しばかり苦労すれば、これからはあんなに衝動的な行動も慎むようになるわ」

 絵理沙の気遣わしげな瞳を見つめながら、亮一は最近のさくらの強硬な態度を思い出した。さっきは自分に手出しさえしたのだ。現実を理解させれば、あるいはもっと素直になるかもしれない。

 苦渋の決断の末、亮一は折れた。

「わかった、二人の言う通りにしよう。だが、もし彼女の身に何かあったら……」

「大丈夫よ」

 絵理沙は微笑んで請け合ったが、その瞳の奥には微かな嘲笑が閃いていた。

 翌朝。藤原家の主治医が絵理沙の診察を行っていた。亮一は一睡もできず、さくらの身を案じていた。

 突然、電話のベルが鳴り響く。

 受話器の向こうから、執事の狼狽した声が聞こえた。

「遠山様! 廃埠頭で女性の遺体が発見されました。首には藤原家のネックレスが……確認したところ、さくら様のもので間違いありません!」

「なんだって? もう一度言え!」

 亮一の手からコーヒーカップが滑り落ち、床で粉々に砕け散った。頭の中が真っ白になる。

「申し訳ございません……さくら様は……お亡くなりになりました」

「嘘だ!」

 残酷な現実を拒絶し、亮一は猛然と立ち上がった。椅子が倒れる。

「間違いだ、何かの間違いに決まってる!」

 絵理沙は息を呑み、タイミングよく涙を流してみせた。

「嘘でしょう、さくら……そんな、どうして?」

 だが亮一はすでに狂ったように部屋を飛び出し、車を飛ばして倉庫へと向かっていた。

「彼女はまだあの倉庫にいるはずだ」

 昼間の倉庫は、不気味なほどがらんとしていた。

 亮一は血走った目で飛び込み、手負いの獣のように吼えた。

「さくらはどこだ!? 彼女を出せ!」

 金のネックレスをした男が、影から悠然と姿を現す。

「おや、これは有名な遠山の若旦那じゃないですか。一晩中お待ちしてましたよ」

「御託はいい! さくらはどこだ!」

「彼女はなぁ……」男は残念そうに首を振った。

「どうやら大物を怒らせちまったようだ。あんたが払える額よりずっと高い値で、彼女の命を買いたいって客がいてね」

 亮一の顔色が瞬時に蒼白になる。

「貴様ら……!」

 男はテーブルの上のノートパソコンを指差し、気のない口調で言った。

「最期を見たいか? わざわざ録画しておいてやったぜ」

 再生された映像に、亮一は膝から崩れ落ちそうになった。画面の中のさくらは傷だらけで、髪も乱れ……首に藤原家のネックレスがなければ、それがさくらだとは認められなかっただろう。

「……嘘だ。こんなの、嘘だ……」亮一はうわごとのように呟く。

 男は亮一に歩み寄り、肩を叩くふりをして、微かに光る小さな物体を彼の服に貼り付けた。そして、わざとらしく慰めの言葉をかける。

「死ぬ前に面白いことを言ってたぜ。復讐がどうとか。坊ちゃん、調べてみたほうがいいんじゃないか? 彼女を犬死にさせたくないならな。俺たちの知らない秘密を知ってたのかもしれねえ」

 亮一は完全に崩れ落ち、地面に膝をついた。

「俺がさくらを殺したんだ……俺のせいだ……どうしてあいつらの言うことなんて聞いたんだ……」

 ふらつく足取りでさくらの部屋に入ると、亮一は室内をひっくり返して探し始めた。さくらには前世で日記をつける習慣があったことを覚えていたのだ。そこに何か手がかりがあるかもしれない。

「さくら……すまない……遅すぎた……」

 自責の念に駆られながら、彼は手当たり次第に探し回る。

 ついに、化粧台の引き出しから革装丁の日記帳を見つけ出した。震える手でページをめくり、最後の記録に辿り着く。

『前世、私は地下牢で毒を注射された。その死に際は、お母様が亡くなった時の症状と瓜二つだった……痙攣、紫に変色した唇、絶望に染まった瞳……一体なぜ? 誰が私たち母娘を殺そうとしたの? 復讐してやる。お母様のため、そして私自身のために』

 日記を握る亮一の手が激しく震える。

「毒殺……? じゃあ、俺がさくらを殺したんじゃないのか? 俺が地下牢に閉じ込めたせいで死なせたと思っていたのに」

 もしさくらが何者かに毒殺され、彼女の母親も同じ手口で殺されたのだとしたら……犯人は誰だ?

 前世で見たさくらの亡骸の様子が脳裏に蘇る。

 突然、恐ろしい疑念が閃いた。絵理沙と、さくらの母親の死には関係があるのではないか。

 亮一は携帯を取り出し、秘書に告げた。

「山田、極秘に調査してほしい人物がいる。藤原絵理沙だ。彼女の資金の流れ、薬品の購入履歴、そしてさくらの母親が亡くなる前の足取り。過去三年に遡って洗ってくれ」

「ですが社長、それは……」

「やれ!」亮一は命令した。

「金の動きは一円たりとも見逃すな。いいか、この件は他言無用だ」

 その頃、セーフハウスでは、さくらと黒服の男が作戦会議を行っていた。

 手下が亮一に仕掛けた盗聴器を通じ、さくらは亮一が真実に辿り着く過程をすべて聞いていた。彼女はワイングラスを傾け、満足げに微笑む。

「彼、絵理沙を疑い始めたな」男が言った。

「計画は成功のようだ」

「彼を絵理沙と対決させるわ」さくらは冷ややかに言い放つ。

「そして、彼女が守ろうとしている人間を、彼自身の手で破滅させてやるの」

前のチャプター
次のチャプター