第2章

 三城香澄を寝かしつけた後、成瀬耀は一人、ベランダへ逃げるようにして煙草を吸っていた。

 彼の長身は、今にもこの濃密な夜の闇に溶けてしまいそうで、ただ指先に灯る紅蓮の火点だけが、明滅を繰り返している。

 その表情は読み取れないが、指の腹で絶えず煙草のフィルターを摩る仕草からは、名状しがたい焦燥が滲み出ていた。

 私は『残響』としての形を保ちながら、彼から二メートルほど離れた虚空に浮かび、冷ややかな視線を送っていた。

 念願の『高嶺の花』を連れ帰ったというのに、今のその苛立ちは誰に見せるためのものなのだろう。

 ああ、そうか。私たちがまだ正式に別れていないから?

 それとも先ほど香澄と向き合った時、何か言い淀んだことへの鬱憤だろうか。

 私はぼんやりとそんな推測を巡らせていた。

 不意に、彼のスマホが震えた。

 耀は反射的にそれを持ち上げる。

 私は背後に回り込み、遠慮なく画面を覗き込んだ。

 その内容を見て、私は息を呑む——

 彼が開いていたのは、私とのLINEのトーク画面だった。

 最後のメッセージは一週間前で止まっている。

 彼の本当の誕生日の前夜、私が送ったものだ。

『耀君、今年の誕生日プレゼントは何がいい?』

 あの日、彼は会社のトラブル処理に追われていたのか、あるいは今のように香澄の傍にいたのか。いずれにせよ、返信はなかった。

 それなのに今、耀の長い指は執拗に画面を下に引いて更新を繰り返している。そうすれば虚空から新着メッセージが湧いて出るとでも言うように。

 私は咄嗟にどう反応すべきか分からなかった。

 私が呆気にとられている間に、耀がメッセージを送信した。

「もう十一時半だ」

 一目見ただけで、その唐突な言葉の意味を理解してしまった。

 夜の十一時半。彼だけの『特別な誕生日』が、まもなく終わろうとしている。

 過去五年間、この日には必ず手打ちうどんを作り、サプライズを用意していたこの彼女が、今年は「お誕生日おめでとう」の一言すら伝えていない。

 でもね、耀君。もう二度とないの。

 これからも、永遠に。

 だって私は、もう死んでいるのだから。

 あなたへのサプライズを準備する途中で。誰にも知られることのない雨の夜に、私は死んだ。

 耀はベランダに三十分も立ち尽くし、煙草の箱が空になってようやく、冷気を纏ってリビングに戻った。

 玄関で少し立ち止まり、ロックを解除してスマホをもう一度確認すると、苛立たしげにそれをソファへ放り投げた。

 彼は冷蔵庫へ直行し、冷凍庫の奥から保存袋を取り出す。

 それは先月、万が一のために私が麺棒で伸ばし、切って冷凍しておいた手打ちうどんだ。

 彼は無表情で湯を沸かし、解凍し、麺を茹でる。

 具もなければ出汁もない。ただ茹でただけの麺を掬い上げ、食卓に座り、うつむいて一口ずつ黙々と口に運ぶ。

 立ち上る湯気が彼の眉にかかり、その表情をより冷たく、より遠いものに見せている。

 静かに麺をすする姿を見て、私の脳裏にふと、滑稽な考えが浮かんだ。

 成瀬耀は、ほんの少しだけ、私を気にかけているのかもしれない。

 その発想に驚き、同時に皮肉めいているとも思った。

 実のところ、厳密には今日は耀の誕生日ではない。

 本当の誕生日は一週間前だ。

 だが五年前のあの一週間、彼の両親が不慮の事故で他界し、三城香澄もまた彼を見捨てて高飛びした。

 それは彼の人生における暗黒の時であり、以来、彼は誕生日を祝わなくなった。

 誕生日を一週間ずらそうと提案したのは私だ。毎回厚かましく祝いの席を設けたのも私。

 孤児院育ちの私にとって、誕生日は自分が『愛されている』ことを確認する唯一の証だったから。

 彼にも、少しでも愛を感じてほしかったのだ。

 初めての『偽の誕生日』。私は彼が好むゲームを陰で猛練習し、徹夜でクリアに付き合うつもりだったが、二時を過ぎた頃には彼の太腿を枕に寝落ちしてしまった。

 目が覚めると、頭上から耀が私を見下ろし、笑うような呆れるような顔で言った。

「もう寝たのか?」

 二回目は最高級の料理を誓ったものの、指を切ってしまい、結局まともに食べられるのは素うどん一杯だけ。

 それでも耀は綺麗に平らげてくれた。

 私は絆創膏だらけの指を得意げにかざして言ったものだ。

「心臓が悪い耀君のために、消化にいいうどんにしたの。蕎麦みたいに降圧効果はないけど、捏ねる時に愛をたっぷり注入したから、きっと心拍数も安定するよ!」

 あの時、耀は長いこと私を見つめて尋ねた。

「紗良、どうして俺にそこまでしてくれる?」

 私は屈託なく笑った。

「耀君が好きだからだよ! 本当に大好き」

 告白の続きを言う間もなく、耀は私の頬を包み込み、口づけをしてきた。

 彼が他人の前で理性を失ったのはそれが初めてで、その夜、私たちは結ばれた。

 その後、三回目、四回目……耀は次第に、私たち二人だけのこの『誕生日』を受け入れるようになった。

 五年の歳月と献身は、石のようだった彼の心に、ようやくひびを入れることができたのだと思う。

「パタリ」

 乾いた音が、私の遊離した思考を引き戻した。

 耀も呆然としていたようで、箸を落としたことに気づいていない。

 すぐに、白く華奢な手が彼の箸を拾い上げた。

「何を食べているの?」

 リビングに香澄の柔らかな声が響く。

「誰が作ったお蕎麦? なんでつゆも薬味もないの」

 香澄は自然な動作で椅子を引き、彼の向かいに座る。

 耀は眉をわずかに寄せ、箸を受け取った。

「うどんだ」

 香澄は彼の冷淡さを気にも留めず、頬杖をついて微笑んだ。

「そういえばさっき、あなたのスマホを見たんだけど。その紗良って子、今日が誕生日だなんて言ってたわよ?」

 耀の指が、びくりと強張った。

 香澄は悪びれもせず笑う。

「ごめんね、ソファに置きっぱなしで画面が光ってたから、つい見ちゃった」

 そして懐かしむように付け加えた。

「それにしても、パスコードずっと変えてないのね。0913、私たちが大学で初めて会った日でしょう?」

 耀は伏し目がちで、その瞳の奥の色は見えない。

 けれど、止まったはずの私の心臓が、きりきりと痛み出した。

 昔、私がいくら甘えてねだっても、記念日に変えるのを「面倒だ」と拒んだパスコード。

 面倒だったわけじゃない。その数字が、彼女のものだったからだ。

「ねえ答えてよ。どうしてあの子、今日が誕生日だなんて思ったの?」

 私は香澄を睨みつけ、それから耀を見た。

 これは二人だけの秘密だと、傷跡を隠すための嘘だと、彼は約束してくれたはずだ。誰にも言わないと——

「五年前のあの日、辛いことが重なって……彼女が、俺の誕生日を一週間ずらそうと言い出したんだ。そうやって祝おうとしてくれた」

 聞き慣れた低い声は、いつも通り抑揚がない。

 私は不意に笑いたくなった。

 あまりに惨めな自分が、滑稽で仕方がない。

 香澄は少し沈黙し、感嘆したように言った。

「本当に尽くす子ね」

「そのうどんも彼女が? あなたのために残したの?」

「ああ」

「だから私を先に寝かせて、一人でこっそり食べてたわけ? 彼女との約束を守るために?」

 耀は答えず、ただ箸を握る手に力を込め、甲に青筋を浮かべている。

 空気が凍りついた。

 不意に香澄が手を伸ばし、傍らの空の椀を手に取った。口調が強くなる。

「私も食べてみたい」

「だめ!」

 私は声の限りに叫んだ。

 だが、誰にも届かない。

 狂ったように突進し、彼女の手を突き飛ばそうとし、丼をひっくり返そうとした。

 けれど私の手は虚しく彼女の体をすり抜け、風さえ起こせない。

 耀の瞳が暗く沈み、とっさに彼女の手首を掴んだ。

「香澄」

 香澄は怯むことなく彼の目を見据え、一言一句噛み締めるように繰り返す。

「食べてみたいの」

「耀君、昔のことはもう終わったわ。これからの誕生日は、ずっと私が一緒に祝ってあげる」

 彼女は彼を追い詰めている。

 過去と現在、どちらかを選べと迫っているのだ。

 耀の顎のラインが強張り、漆黒の瞳に葛藤が走る。どれほどの時間が過ぎただろうか。彼女を制していた手が、ゆっくりと解かれた。

 香澄は満足げにうどんをひと箸掴み、口へと運んだ。

 私は呆然と立ち尽くし、右手でお腹を死守するように押さえながら、目尻から溢れる涙を止められなかった。

 その痛みは、無数の鈍ら刀で魂を切り刻まれるようで、私の尊厳と愛を粉々に砕いていく。

 これはただのうどんじゃない。

 私がこの世に残した、彼を愛した最後の痕跡だったのに。

 それから数日、私は地縛霊のようにマンションの隅に漂い、彼らを冷めた目で眺めていた。

 気のせいか、あの夜以来、耀の態度は香澄に対してよそよそしくなっていた。

 たまにゲームに付き合う以外に親密な素振りはなく、彼女との接触を避けているようにも見える。

 ある日の午後、ファッション誌をめくりながら香澄が何気なく尋ねた。

「そういえば聞き忘れてたけど、その紗良って子はどこに行ったの?」

 書類を見ていた耀の手が止まる。その声は恐ろしいほど平坦だった。

「先日喧嘩をしてね。会社に出張を申請して出て行ったよ」

 香澄が鼻で笑う。

「何日も連絡がないなんて、とっくに愛想尽かされたんじゃない?」

 耀は勢いよく顔を上げ、暗い瞳で、けれど断固として否定した。

「あり得ない」

 そう言いながら、彼は無意識にスマホを手に取り、画面を点灯させて私とのトーク画面を見つめる。

 そこには依然として、彼が送った「もう十一時半だ」という言葉だけが残されていた。

 彼の眉間に、珍しく不安と焦燥の色が浮かぶ。指は入力欄の上を彷徨い、何かを打ち込もうとしては、何を打つべきか迷っているようだ。

 その姿を見て、死に絶えていたはずの私の心に、どす黒い快感が芽生えた。

 ああ、そうだ。

 彼はまだ知らない。私がもう死んでいることを。

 真実を知ったその瞬間、彼は一体どんな顔をするのだろう。

 ふと、それが楽しみになった。

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