第4章 あなたがまだ私の妻である限り

中村七海は眉を上げて微笑んだが、その冷淡さの中にはわずかな苦渋が滲んでいた。

彼女は手首の傷を隠そうと、取り繕うように袖口を少し引き下ろした。

これは彼女自身の問題だ。自尊心であれ、プライドであれ、他人に知られたくはなかった。

「契約書にサイン? ええ、ちょうだい」

彼女は平然を装い、怪我をしていない方の手を伸ばして受け取ろうとした。

しかし、佐藤奈須は書類を渡さなかった。彼の黒く輝く瞳は、まるで彼女を見透かすかのように、まっすぐに彼女を射抜いている。

「君は一応、中村家が認めた若奥様なんだろう。ここは中村グループだぞ。まさか、命知らずにも君をいじめるような奴がいるのか?」

彼の口調は冷たく沈んでおり、その視線は彼女の顔からゆっくりと下がり、怪我をした手首に注がれた。

中村家の若奥様、か。中村健はそれを認めているのだろうか?

中村七海の口元に苦笑が浮かぶ。彼女は黙り込んだ。

どうしても口に出しがたい言葉というものがある。

それはまるで胸の古傷のように、時折ずきりと痛むが、誰にも関係のないことだった。

佐藤奈須は聡明な男だ。

ネット上には、中村グループ社長が深夜に愛人を空港まで迎えに行ったというニュースが溢れかえっており、それだけで全てを物語っていた。

中村七海が我慢を強いられる相手がいるとすれば、それは中村健しかいない。

「なるほどな。あのクソ旦那が愛人を連れて乗り込んできたってわけか」

彼の声には、どこか歯ぎしりするような響きがあり、眼差しは鋭かった。

彼女の顔の表情は、彼には何も隠せない。どうやら彼女は本当にこの件を追及する気がないらしい。

中村七海は再び唇をきつく結び、爪が掌に食い込むほどだった。

「まさか、このまま黙って見過ごすなんて言うなよ。君らしくもない」

佐藤奈須は歯がゆそうに言った。「どうしても無理なら、次にその女が来たら俺に言え。俺には女を殴らないなんて紳士的な気質はないからな。代わりに懲らしめてやる」

「彼女の方が、私より重傷よ!」

中村七海が顔を上げると、その瞳には冷ややかな誇りが宿っていた。

「病院で手当てしてくるわ。すぐに戻るから」

「俺も付き合う」

佐藤奈須は手にしていた書類を助手へと放り投げ、彼女を追いかけていった。

二人は会社から最も近い病院へ向かった。

佐藤奈須は彼女に付き添い、傷の手当てをしてもらった。

火傷の他に、足首も少し捻挫していたが、大した問題ではなかった。塗り薬を数日つければ治るだろう。

佐藤奈須は彼女のために薬を受け取り、会計を済ませ、あちこち走り回ってかいがいしく世話を焼いた。

半日ほど忙しく立ち回り、ようやく全てが終わった。

中村七海の顔色は依然として青白く、目は少し腫れ、生気がない。

佐藤奈須は腕時計を見て、もうすぐ昼になる時間だと確認した。

「一緒に飯でも食おう。俺が奢る」

正直なところ、中村七海には食欲が全くなかった。

「別れるだけだろ。世界の終わりじゃない。飯は食わなきゃ。じゃないと、あんたっていう奥さんはどうやって奴らと戦う気力を出すんだ?」

彼は肩をすくめ、いつものようにどこかふざけた口調で言った。

中村七海は小さく頷いた。

彼の厚意をあまり無下にしたくなかったし、それに、彼は半日も自分のために付き合ってくれたのだ。

「どこの店がいいと思う?」

彼は立て続けにいくつかの有名レストランの名前を挙げた。

しかし、中村七海の反応は薄い。「どこでもいいわ。どこでも」

「どこでも? どこでもって、どこの店だよ? うーん、ちょっと考えさせてくれ」

彼はわざと眉をひそめ、真剣に考え込むふりをした。

「もういいわ。あなたが行きたいところで」

彼女は少し呆れたように言った。

ちょうどその時、正面から二人の人物が歩いてきた。中村健と鈴木南だった。

なるほど、彼も彼女をこの病院に連れてきていたのか。

中村七海は、あの男と非常に親しげに、そして気楽そうに歩いていた。そこには呆れと甘えが混じったような表情があった。

それは、彼の前では一度も見せたことのない気安さだった。

中村健の顔色が、瞬く間に暗く沈んだ。

彼女はもうそんなに待ちきれないのか? そんなに急いで次の相手を見つけたというのか?

あるいは、とうの昔から画策していたのか……。

「あら、お姉様もここに。誰と一緒なのかしら? すごく親密そう。健兄さんのこと、少しも気にしてないみたい。お姉様はまだ健兄さんの籍に入ってる奥様なのに、外でいちゃつくなんて、ちょっと奔放すぎないかしら?」

鈴木南はため息をつき、続けた。「健兄さんのこと、私まで辛くなっちゃう。ひどすぎません?」

その怒りの火は、瞬く間に燃え上がった。

中村健は大股で歩み寄り、冷たい声で怒鳴りつけた。「中村七海! 自分の立場を忘れるな! 一日でも離婚しない限り、お前はまだ中村家の人間だ。外で他の男とは距離を保て!」

中村七海は呆然とした。

廉恥! 彼が彼女に廉恥心がないと責めるのか!

むしろ問いたい。彼に廉恥心はあるのかと。

彼の正真正銘の妻は自分で、では彼の隣にいる女は何者なのか。

中村七海は皮肉を込めて言った。「あなたは? 自分が既婚者だと忘れて、妻を放り出して他の女と病院に来ている自覚はあるの?」

中村健は眉をひそめた。「南ちゃんは他の女じゃない」

「それに、彼女を傷つけたのはあなたの方でしょう。反省もしないどころか、そんな冷血なことまで言うなんて」

中村七海は笑いたかったが、どうしても笑えなかった。

彼は彼女の手に巻かれた明白な包帯が見えているのだろうか。それとも、見えていても気にしていないのだろうか。

もうそんなことを考えるのはやめよう。もう離婚するのだ。何の意味があるというのだろう?

中村七海は、ふと心が晴れるような気がした。

「安心して。離婚協議書はすぐに渡すわ。そうすれば私はもう中村家の人間じゃない。私が何をしようと、あなたには関係ない」

中村健の眉間の皺がさらに深くなる。

彼女があまりにもあっさりと承諾するものだから、本当に次の相手を見つけていたのだと確信した。

わけもなく、彼は苛立ちを覚え、さらにはずっと手の中にあったものが制御できなくなるような感覚に陥った。

「きゃっ!」

鈴木南が苦痛に顔を歪め、悲鳴を上げた。

「健兄さん、痛い!」

彼女の声は哀れっぽかった。

彼はついに口実を見つけ、冷ややかに言い放った。「中村七海、この件は不問にしてやる。今すぐ南ちゃんに謝れ!」

それは会社でいつものように部下を顎で使う、命令口調だった。

中村七海の心臓がずきりと痛み、彼女は顔の表情を隠すようにわずかに俯いた。「もし私が謝らないと言ったら、あなたは商売敵に使うような手段を、私に使うつもり?」

強固な殻はあっけなく砕かれ、これまで決して見せなかった脆い感情が露わになった。

ビジネスは戦場だ。鶴の一声で物事を決める中村さんが、弱さを見せることは決してない。

中村健は突如、胸に不快感を覚え、何かを言おうとした時、傍らから嘲るような笑い声が響いた。

佐藤奈須は、何か面白い冗談でも聞いたかのように言った。「なんだって? 妻が浮気相手に謝るだと? 気が狂ったのはあんたか、それとも俺か?」

彼の遠慮のない嘲笑に、中村健の顔が冷たくなった。

中村七海は感情を整え、再び元の冷静沈着な様子に戻っていた。

「私を傷つけたのは彼女よ。謝るべきは彼女の方じゃないかしら? そんなに彼女のことが気になるなら、監視カメラでも確認すればいいわ」

「そいつはいいな。ちょうどはっきりさせられる。もし故意に人を傷つけたなら、刑事事件になるんじゃないか?」

佐藤奈須はそう言って同調し、意図的に鈴木南をちらりと見た。

鈴木南は慌て、その顔色は目に見えて狼狽した。

「健兄さん、実はそんなに痛くもないの。それに、全部お姉様のせいってわけでもなくて、私が不注意だっただけなの。ほんの些細なことだから、みんな気にしないでくれないかしら?」

彼女は中村七海の手首を一瞥し、心を痛めているかのように装った。「お姉様も怪我をしているみたい。ごめんなさい、私のせいだわ」

実に真に迫った表情だ。見事な演技だった。

中村七海は冷笑した。「悪いとわかっていたなら、どうして最初からそう説明しなかったの?」

鈴木南は愛嬌たっぷりの顔で、天真爛漫といった様子だ。

「その時は痛すぎて、忘れちゃってたの」

彼女は中村健を見上げ、甘えるように言った。「健兄さんはきっと気にしてないわよね」

「そういうことなら、この件はもういい」

軽い一言だった。中村健の表情は依然として険しく、態度は強硬なままだったが、鈴木南に向ける視線だけは、少し和らいでいた。

もし中村七海が間違いを犯せば、きっと徹底的に追及しただろう。

それが鈴木南に変わると、この件は終わりになる。

彼は常に公私混同をしない人間だったが、鈴木南のためには何度も例外を作った。

やはり、贔屓とは不公平なものだ。

「行きましょう」中村七海は淡々と笑った。

佐藤奈須は軽蔑するように鈴木南を一瞥し、中村七海について行った。

その時、中村健が叫んだ。「待て!」

途端に、中村七海は足を止めた。心に秘めた期待と喜びを抱いて。

彼が呼び止めたのは、もしかして……。

しかし、背後から放たれた氷のような言葉が、彼女の最後の期待を打ち砕いた。

「離婚協議書を忘れるな!」

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